土門拳が描く原爆の悲惨

 ハロウィンに関連したニュースに、30年前の日本人留学生射殺事件がある。

 1992年10月18日、米国ルイジアナ州バトンルージュに高校留学していた服部剛丈(よしひろ)さん(当時16歳)が、ハロウィンを控えたパーティに仮装して出かけ、会場の家を間違えて別人の家に近づいたところ、その住人に拳銃を発射された。警告射撃もなく、いきなり左胸を撃たれ、死亡した。

服部剛丈さん

 彼はAFS(アメリカンフィールドサービス)という団体のプログラムで米国留学した39期生で、私(17期生)の後輩にあたる。その縁で事件には大きな衝撃を受け、関心をもってきた。

 剛丈さんの両親は友人たちの協力でアメリカの家庭からの銃の撤去を求める請願書」に署名を求める活動を開始、1年余で170万人分を超える署名を集めた。1993年11月、当時のクリントン大統領に署名を届けるために面会。服部夫妻の米国滞在中に、銃規制の重要法案のブレイディ法が可決された。剛丈さんの犠牲からはじまった運動が、米国の法規制を後押ししたわけである。

クリントン大統領に署名を届け言葉をかわす母親の美恵子さん(NHKおはよう日本より)

 剛丈さんの両親は、生命保険のお金を原資に、相互交流の促進のためAFSに「YOSHI基金を設立、毎年日本に滞在する米国の高校生1人に奨学金を提供している。

 また、ピストルを発射した男性からの賠償金を原資として「Yoshi's Gift」を設立し、アメリカ国内の銃規制団体を援助している。バトンルージュでは銃規制団体が10月17日を「YOSHIの日」として祈念行事を行っている。

今月16日、バトンルージュでは剛丈さんの慰霊祭が行われ、両親がメッセージを寄せた。米国の銃規制団体は、剛丈さんの両親の存在が大きな励ましになっているという(東京新聞より)

 自分の子どもに起きた悲劇から、米国での銃規制を促進しようと立ちあがり、息長く活動を続けてきた剛丈さんの両親には頭が下がる。

 今月、剛丈さんの両親、政一(まさいち)さん(75)と美恵子さん(74)は高齢になったこともあり、30年間続けてきた銃規制の運動の一線から退くことを表明した。米国で銃規制の活動をする団体の元代表からは「あなたがたの活動のお陰で、銃暴力防止運動が始まり、強くなった」と感謝の言葉が寄せられたという。

服部剛丈さんの両親は活動に一区切りつけ、今後は基金の運営に注力するという。(朝日新聞朝刊10日付)

 多くの人々の願いにもかかわらず、米国では今なお銃による殺害、障害事件が後を絶たない。

 所持していれば使いたくなる。これは核兵器にもいえるのではないか。
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 土門拳は写真を撮るだけでなく、取材して文章を書いている。写真と相まって、原爆の悲劇性が胸を打つ。『生きているヒロシマ』より引用する。

原爆病院の患者たち 

『生きているヒロシマ』より

 33歳の既婚女性が、自身のケロイドを治療するために入院していた。「普通でない」母親を嫌がるようになった娘への配慮と、夫への引け目を軽くしたいという妻としての願いからだった。

 被爆したのは爆心地から1.5キロ、彼女が19歳のときだった。

「確かにB-29らしい爆音を聞いた覚えも、ピカッと目を射る光を感じた覚えもあった。とにかく、気がついたときは、道のわきの草の中にころがっていた。あたりは一面に灰色で、なにも見えなかった。それが明るくなるまでの息苦しさといったらなかった。自分だけは死なない、どうしても生きたい、絶対に死にたくない、と思い続けていた。

 やっと明るくなって、己斐町のほうへ夢中で逃げた。火の煙のうずまく街の中を泣き叫びながら逃げ迷っている人。男とも女とも区別がつかないほど全身真黒に焼け焦げて死んでいる人。頭の毛に火がついても、それを消す気力さえもなく倒れている人。道ばたにころがってぷすぷすと火を吹いている自転車。途中、観音町のあたりで、黒い雨がものすごい勢いで降ってきた。

 私は、顔と左手の皮膚がむけて垂れ下っていた。顔は自分では分からなかったが、左手の皮膚のむけたあとは、あざやかな黄と紫のまだらで、実にきれいな色をしていた。重たく、だるい感じはしたが、不思議と痛みは感じなかった。(略)

 私はただお母さんのところへ行こうとだけ思って、必死に歩いていた。(略)私は運よく避難民をのせたトラックに助けられた。そのトラックには、顔や手から焼けただれた皮膚のぶら下った勤労動員の学生がいっぱい乗っていた。(略)草津で私は学生さんたちと別れた。草津からお母さんの疎開先の八幡村までは二里ちかくあった。また運よく知り合いに出会った。今度は大八車に乗せられて、お母さんのところまで連れていかれた。

 お母さんは、ちょうど門の前に出ていた。私にはお母さんがわかっても、お母さんは私がわからないらしかった。

「広島のほうは火事で大ごとじゃけど、この人はひどいやけどしてかわいそうにな。どこの娘さんかしらんが」と、独り言を言っていた。

「お母さん、私よ」と、私は大八車の上から叫んだ。それでもお母さんは、気がつかなかった。

「お母さん、これ娘さんじゃけんど、あんまり泣かんとおいて下さい」と、大八車を引いていた人が言ってくれた。

「お母さん、私、キミエよ」と、私はまた叫んだ。顔は変っても、声は変っていないはずだった。お母さんは目をまんまるくして私を見ていたが、そのうちわあっと泣いて、私に取りすがった・・・。」P40-42

 

十三年寝たきりの人

ツタさん(奥)と妙子ちゃん(『生きているヒロシマ』より)

 土門は、被爆以来十三年寝たきりの人が、ぼくの知った限りでも、広島に三人いたという。その一人が平本ツタさんだ。

 舟入川口町にあった爆心地から1.5キロの自宅で被爆した。孫の妙子ちゃんをだいたまま5メートルばかり吹きとばされた。幸い家の陰で二人とも熱線の直射照射によるやけどはまぬかれた。

 ツタさんの夫、妙子ちゃんのお母さんは即死。妙子ちゃんのお父さんはすでに外地で戦死していた。一日のうちに、着のみ着のままのおばあちゃんひとり、孫娘ひとりになってしまった。

 戦後、ツタさんはかつぎ屋になって働いたが、まもなく寝ついてしまった。ツタさんは、放射線障害による再生不良性貧血とされている。しかし一度も入院加療はしていない。原爆病院に入院しようにも、いわば持って行く蒲団すらないという最下限のケースにぞくするわけである。ただ近所の開業医が一週間に一度か二度、好意的に注射などをしてくれているそうである。ツタさんは今年六十四歳である。(略)

 妙子ちゃんは新制中学へ進んだが、おばあちゃんの看護のため、ほとんど通学できなかった。それで同級生から「サボリ」というニック・ネームをつけられた。(略)

 ツタさんと妙子ちゃんは、「生活保護法」による「生活扶助」と「教育扶助」を受けて、ふたり合わせて毎月三千六百円の給付金で暮らしてきた。妙子ちゃんが新制中学を卒業して食料品加工工場に勤めるようになったら、それも打ち切られてしまった。今は妙子ちゃんの月給四千円で暮らしている。

 今年十七歳になる妙子ちゃんは色白の小柄な娘だが、その顔の白さもやはり貧血性のものと思われる。「本当は、おばあちゃんよりも私のほうが早く死ぬかもしれないのです」と妙子ちゃんは言っていた。「もし私が死んだら、誰がおばあちゃんの面倒をみてくれるか、それが一番心配です」もちろん、ツタさんはそのことを知らない。(略)
二月十二日「原爆被害者の会」事務長温品道義氏から一通の手紙がきた。その一節に妙子ちゃんの近況が書いてあった。

『平本さんの破れ戸に立ってみると、戸がしまっています。ノックして戸をあけながら、ふと妙子ちゃんも寝ているのに気がつきました。「食事にもどったのか」と、多分そうだろうと思った私は尋ねたのでした。ところが彼女の語るところによると、彼女自身からだの調子が悪くて一カ月ぐらい前から休みがちだとのことでした。そういえば、一月十二日に原水協の人と訪問したときも休んでいました。「おばあちゃんも病状が悪化するし、金もないので、おかゆばかり食べていたの。そうしたら私も何となくからだがだるくて・・・」と、仕事に行かなかった原因を話すのです。そして「おじさん、何かよい内職はないかしら」と訴えました。よく聞いてみると、休みがちのために今の職場は居づらいというのでした。見るともなく、ふと私は彼女たちが昨年末ある同情者からもらったはずの毛布を被っていないのに気がつきました。それを尋ねると、やはり先日金に困って売ったのでした』


 今住んでいるのは、焼け出された人たちが焼けトタンなどをかき集めて建てたバラックだが、広島市はツタさんたちに立退き命令を出している。私有地を無断で使用したというので、立退料など一円も出せないという。これがツタさんの心配の種だ。
(P100-101)

 原爆は使用された後々まで、人々を苦しめていく。

(つづく)