杉良太郎、見なおした。
44歳のときから35年間、ベトナムの孤児だちを支援しつづけ、なんと200人もの里子を迎えてきたという。そのなかの一人、グエン・タン・ガーさんは、病気で両親を亡くして孤児院にいた12歳のとき、杉と出会って里子になり、大学に合格して日本語を学び、今では杉がベトナムに建てた「ヌイチュック杉良太郎日本語センター」で日本語を教えている。
杉良太郎は毎年ベトナムの孤児院や盲学校を訪れ、里子には全員分の生活費や医療費、塾に大学の費用まで必要なものはすべて出してきたという。
売名かなと思っていたが、それだけで35年も持続できない。いや、ここまでくれば、たとえ売名でもいいよ。立派。
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植物の標本をとりに家に戻るという万太郎に、息子が、「慶応大学では武器庫が破られて武器が持ち出されている。人間がおかしくなっている。植物どころじゃない」と止めようとするシーンがあった。
吉村昭『関東大震災』を読んでいたら、朝鮮人に関する流言がひろまるや、自警団が一斉に武装し、「凶器を手にするため慶応大学の銃器庫に押し寄せさえした」との記述があった。
《9月2日夕刻、東京市芝区三田方面では、朝鮮人来襲の流言におびえた住民多数が慶応大学構内に避難した。その際前田某という青年団の幹部が、朝鮮人に対抗する武器を入手しようとして他の青年団員を指揮して同大学倉庫に入り、銃及び剣を持ち出した。銃は三八式、三〇式、二二式各歩兵銃とレカンツ銃で、その他指揮刀、短剣、計数百挺に及んだ。
武装したかれらは、昼夜交代で路に検問所を設け、隊を組んで町内を巡回した。》(P179)
大学に武器庫があったとは知らなかった。
「らんまん」では大杉栄と伊藤野枝の虐殺(甘粕事件)も会話に出てきて、たしか「かわいそうに」というセリフがあった。
事件が起きたのは9月16日。すでに東京の市街自動車や乗合自動車、電車も復旧しはじめており、政府は朝鮮人虐殺を抑えにかかっていた。
無政府主義者の大杉栄と内妻の伊藤野枝は、震災の被害の大きかった横浜の鶴見に住む大杉の弟の勇の自宅を訪ね、無事を確認した。甥の橘宗一(6歳)が「東京の焼け跡を見たい」とせがむので連れて東京に戻ったところ、横浜の憲兵隊特高課に連行された。その後、3人は大手町の憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって扼殺され、遺体は井戸に遺棄された。
これが「甘粕事件」(大杉事件)だ。はじめ陸軍省はその事実をひたすらかくすことにつとめたが、新聞2社がこれを知り、20日夕刻、号外を印刷した。警視庁はその号外を差し押さえ、報道を禁じた。風説が広まったため、24日、陸軍省は甘粕大尉が3人を殺したことと軍法会議にかけることだけを発表した。
軍法会議で犯行の詳細が明らかになると、大杉栄が著名人であったことや、28歳の伊藤野枝やわずか6歳の甥までが残忍に殺されたことに、世間からも非難の声があがった。時事新報は「陸軍の大汚辱」と書き、東京日日新聞は「軍人の敵 人道の賊」と非難した。
陸軍は、この殺害事件が甘粕大尉らの個人的な行為で、陸軍とは全く関係がないとした。その一方で、甘粕大尉の行動が国のためを思ってのことだったと訴えた。
「甘粕は、個人的な恨みや私利私欲のために殺害事件を起したのではない。あくまでもかれは、軍人として国家のためを思い大杉らを殺したのである」と。
一般大衆のなかには、甘粕を愛国者と称賛する動きもあり、減刑嘆願署名が65万筆も集まったという。軍法会議の判決は、甘粕正彦大尉に懲役十年という驚くほど軽い刑言い渡した。
甘粕は3年で仮釈放になりフランスに渡る。そして昭和5年(1930年)に満州に向かい、満州国成立とともに要職に就き、退官して満映理事長として映画界の大立者となった。満州で終戦を迎え、昭和20年、「大東亜戦争終結の詔書」を朗読する玉音放送の5日後の8月20日、青酸カリを飲んで自殺している。
この事件は甘粕ら一部の憲兵による突出した行動だったが、16日付の本ブログに紹介したように、警察庁は、9月5日、正力松太郎官房主事と警務部長名で、社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよとの通牒を出し、さらに11日には正力官房主事から、社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れがあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよと命令を発していた。
大杉栄を殺せという直接の命令があったわけではないが、大きな構図としては、どさくさに紛れて、やっかいな反政府活動家を抹殺したい権力の意向を汲んだ行動といえるだろう。
ところで、大杉栄の内縁の妻、伊藤野枝はとてもおもしろい女性だったようだ。元夫との間に2人、大杉との間に5人の子どもを産みながら反権力の道を自由奔放に生きていた。
野枝の妹、ツタの話が興味深い。
「私は、とうとうひとりも自分の子供がうめなかったのに、姉は十年に七人の子を産んで今の年でいえば二十八で死んでいったのですからね。それだけだって、たいへんな生命力ですよ。産後二十日で、大杉とあの物騒な時に横浜まで出かけるなんてねえ。でも、今でも時々、ひとりで思うことですが、震災がもう半年おそかったら、野枝たちは殺されていなかったんではないかということです。それというのも、本当のところ、あの人たちも子供だちのことを考えて、もうこんな危ないことはやめようといって、転向の用意をしていたんですよ。私どもにもそういっていましたから。」(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』P44)
(つづく)