核戦争寸前だった第二次台湾海峡危機

 お知らせです。

 高世仁のニュース・パンフォーカスNo.31「今こそ、ヒロシマナガサキの原点に立ち返る」を公開しました。

www.tsunagi-media.jp

https://www.tsunagi-media.jp/blog/news/31

 ウクライナ戦争で核兵器使用の可能性がとりざたされるなか、自分の意識のなかでも「核タブー」が薄れつつあるのを感じて、これでいいのかとの自戒を込めて書きました。ご関心あればお読みください。
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 「ロシアと国民を守るため使用可能なすべての兵器システムを必ず使う。はったりではない」プーチン大統領 9月の発言)

「はったりではない」とすごむプーチン大統領(9月21日)(ANNニュースより)

 ロシアの戦術核兵器や「汚い爆弾」をふくむ核の使用の可能性については、いまは「使うぞ」という脅しの段階だというのが大方の見方のようだ。

 しかし、今年3月、ロシアがウクライナ侵攻の態勢をとった時、ほとんどの専門家が、ウクライナに圧力をかけるだけで、実際に侵攻することはないだろうと言っていた。「まさか」が起きてしまうのが現実なのだ。

 NATOは毎年秋に行っている核兵器使用を想定した軍事演習を今年も今月17∼30日に14カ国が参加して実施した。演習内容は、日本に住む我々にとってはけっこう衝撃的なものだ。

「演習では実弾こそ使わないものの、米軍の長距離爆撃機B52など50∼60機が、核兵器の投下を想定した訓練や空中給油などを実施。地上要員は核爆弾の運搬や航空機への取り付けなどの手順を確認する」(朝日朝刊27日付)

 米軍備管理不拡散センターによると欧州には米国が保有する核爆弾が計約100発、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、トルコの5カ国に配備されている。

 NATOは加盟国が核兵器による安全保障を分かちあう「核シェアリング」のしくみを持ち、これが「抑止力」になるとされている。しかし、マクロン仏大統領は12日、ロシアがウクライナや周辺地域で核兵器を使用しても、「フランスが核で反撃する事態に当てはまらない」と明言したウクライナNATOに加盟していないから、この判断は間違ってはいないのだが、こうした足並みの乱れがロシアへの核抑止を弱めることもたしかだ。

 核戦争に発展したかもしれない危うい事態として1962年秋の「キューバ・ミサイル危機」が挙げられるが、それ以外にも、核兵器の使用が現実的オプションになったことがある。1958年の第2次台湾海峡危機だ。この時、米政府内で中国本土への核攻撃が真剣に検討されていた。

 第2次台湾海峡危機は、中国軍による台湾の金門島への砲撃で始まった。このとき太平洋空軍司令官は、台湾を支援する米国と中国との武力衝突が開始された時点で、中国本土への核の先制攻撃の許可を求めていた。中国空軍基地に限定した、抑制された核攻撃を行い、それでも中国が引かない場合、トワイニング統合参謀本部議長は「北は上海にいたるまで深く核攻撃を行う以外に選択肢はない」とした

 この事実は、かつて「ペンタゴン・ペーパーズ」を暴露した元国防総省職員のダニエル・エルスバーグ氏が入手していた機密文書をもとに、去年春に『ニューヨーク・タイムズ』が報じた。(朝日朝刊21年5月25日付)

www.nytimes.com

https://www.nytimes.com/2021/05/22/us/politics/nuclear-war-risk-1958-us-china.html

 米軍が中国本土に核攻撃をすれば、ソ連が核による報復攻撃をしてくると米国の当局者たちは想定した。トワイニング氏は「(ソ連が)台湾にはほぼ確実に、沖縄にも核攻撃で報復するだろう」しかし、「国家安全保障政策として(金門島など)島嶼部を防衛するならば、その結果を受け入れなければならない」と主張したという。

 最終的にこのオプションはアイゼンワー大統領が退けたというが、当時の米軍トップが核の報復合戦を覚悟したうえで先制使用をためらわない考え方をしていたということに驚き、ぞっとする。
 
 現在の中国は大量の核弾頭を保有するだけでなく、迎撃困難な高性能ミサイルを開発しており、核の報復合戦は破局的な被害をもたらすだろう。エルスバーグ氏は、最近の台湾海峡をめぐる緊張の高まりに警鐘を鳴らすため、この機密文書を公開したのではないか。
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 きのうの続き。

 写真家の土門拳は1958年に写真集「ヒロシマ」を発表し、国内外に大きな反響を呼ぶのだが、記念館に展示されていた彼の「はじめてのヒロシマという文章に意外の念をもった。前年57年にはじめて広島に足を踏み入れるまで、原爆を「忘却のかなた」においてきたというのだ。

「ぼくたち自身も『ヒロシマ』は、もはや過去のこととして忘却のかなたにおいてきた。(略)十三年前の古い出来事である『ヒロシマ』は、今日ただ今のなにかに結びつかない限り、今さらマス・コミュニケーションの中に姿を現すことはない。」

 その上、ビキニ環礁はじめ「相次ぐ大規模な原水爆実験、原子力発電、大陸間弾道兵器、人工衛星などのニュースは、十三年前の『ヒロシマ』などは、いよいよもって素朴きわまる『原爆の古典』に追いやってしまったのである。」

 広島で土門は、自らを叱咤する。

「ぼくは、広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは『ヒロシマ』を忘れていたというより、実ははじめから何も知ってはいなかったのだ。」と。

土門拳「胎児だった少年 梶山健二君の死」(『はじめてのヒロシマ』より)

 当時ジャーナリズムの第一線で社会問題をするどく取材していた土門拳にして、こんな認識だったとは。また、私たちから見れば戦後たったの十三年しかたっていないのに、すでに被爆の「風化」が進んでいたことにも驚く。

 どんなに悲惨なことがらでも、記録されなければ、たちまち「忘却のかなた」に遠ざさってしまう。
(つづく)