連載50周年を迎える「はだしのゲン」

 先々週のことになるが、NHK『国際報道』の酒井美帆キャスターのフィンランド取材を特集していた。

酒井美帆キャスターの物おじしない取材態度がよかった(国際報道より)

 フィンランドは幸福度ランキングで6年連続世界一。男女平等を示す指数で世界2位、女性の働きやすさで世界3位。

 お手本にしたい国である。

 2000年に女性ではじめて大統領になったハロネン氏(79)に女性活躍への歩みをインタビューしていたが、興味深いことに、かつてはフィンランドでも、女性は家にいるべきで、子どもを外に預けるなんてとんでもないこととされていたそうだ。現在のような環境を作るまでには大変な努力があったという。

戦後復興に女性の労働力が求められた

結果、保育所を作れという運動が起きた

 実はフィンランド第二次世界大戦では枢軸国側で戦い、戦後は敗戦国としてソビエト連邦に領土を譲り多額の賠償金を負った。日本は戦後復興のさいアメリカの「マーシャル・プラン」の援助を受けたが、フィンランドソ連からの圧力でマーシャル・プランを拒絶せざるを得なかったという。

 戦後復興の歩みは厳しく、女性たちの多くも就労を求められた。このことが保育所の拡充などの女性が働く環境の整備を求める運動につながっていった。ハロネン元大統領はシングルマザーとしてすべての子どもに保育を受ける権利を認めよと強く運動した。政治的に多くの抵抗や妨害があったうえ、個人的にも子育てと政治活動の両立は大変だったが、自らが「ロールモデル」になり、後ろに続く女性たちに道を示してきたという

「困ったときには頼れるという安心感が社会には必要だ」という、シングルマザーで政治家になったハロネン元大統領

政治が動いた結果、現在の充実した保育環境がある

妊娠から出産そして育児までのサポートをする「NEUVOLA(ネウボラ)」という施設があり、ほぼ100%の利用率だという。産後の就職の相談までできる。

新生児の服など約40点の育児パッケージが支給される

 以前、スウェーデン大使に聞いた話を思いだした。スウェーデンでもかつては女性は家にいろという風潮だったそうだ。政治の力で国のかたちはいくらでも変えられるんだなと勇気づけられた。
https://takase.hatenablog.jp/entry/2016

takase.hatenablog.jp

0225

 為せば成る、ということだ。

 自民党が、宗教右派統一協会をふくむ)に足を引っ張られて、女性や外国人などへの差別をなくす、当たり前の政策が打ち出せないのが情けない。
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 岸田首相だのお膝元の広島市では、小中高校で使う平和教育の教材から漫画「はだしのゲン」を削除すると決定、大きな議論を呼んでいる。

はだしのゲン

 広島で被爆した少年を主人公にした漫画「はだしのゲン」は、1973年6月4日号の週刊少年ジャンプで連載が始まった。今年の6月で50年を迎える。また今年は作者の中沢啓治さんの没十年にもあたっていてイベントが予定されている

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 はだしのゲン」は24もの外国語に翻訳されていて、今も新たな言語への翻訳作業が進んでいるという。被爆の実相にこの漫画で触れた人は内外とわず多いことだろう。

朝日新聞24日朝刊。連載開始50年特集の連載。


 この漫画でもっとも衝撃的だったのは、ゲンの家族が生きたまま目の前で焼かれていくシーンだ。母親は気がふれそうになる。私の想像を絶する悲惨だが、これは作者の中沢啓治さんの実体験だという。

はだしのゲン第2巻冒頭部分

《多くの民家がつぶれ、自宅も全壊していた。「あんちゃん、早うかえって来いよ」。出かける時、玄関先で遊んでいた弟は、自宅の柱に頭を挟まれた。母が柱を必死にどかそうとしたが、動かない。

 「お母ちゃん、痛いよー!」。泣き叫ぶ弟の声は、火の手が迫ると「お母ちゃーん、熱いー!」に変わり、意識があるまま焼かれた。いつも一緒に登校する優しい姉は「学校の準備ができていないから、先に行って」と自宅に残り、家の下敷きに。父は、倒壊した家の中で「何とかできんのか」と叫びながら火に包まれた。

 臨月の母はショックでその日に女の子を出産するが、栄養不足か被爆の影響か、生後4か月で亡くなった。

 原爆が落とされたら、人間になにが起きるのか。6歳の中沢さんの目に焼き付いた。》

 その後、原爆のことは忘れたいと人にも言わずにいた。上京して漫画家になるが、27歳のとき、母親の死を故郷から知らされる。広島に戻って、母の遺体を火葬場で焼くと、3~4センチの小さな白い破片と灰しか残らなかった。

《原爆で人生をめちゃくちゃにされながら、残った子どもたちを必死で育て上げたお袋。「骨の髄まで、原爆は奪っていきやがるのか・・・」。猛烈な怒りがこみ上げ、東京に戻る列車で決心した。

〈おやじ、姉、弟、そして生後4か月で死んだ妹のうらみを晴らしてやるぞ。日本政府だろうが米国政府だろうが、戦争と原爆の責任を徹底的に追求してやる。(中略)漫画の中で徹底的に闘ってやる!!〉(自著「はだしのゲン わたしの遺書」)》(朝日新聞24日記事より)

 こういう現実を知れば、核兵器はぜったいに使ってはならないと素直に思えるはずだ。

被爆者を失望させた広島G7

 先日、香港出身のジャーナリスト、クレ・カオルさんの講演会に行ってきた。

クレ・カオルさん。東京外国語大学での講演(5月20日

東京外国語大学での写真展

 彼はウクライナに、ロシアが侵略する前から入って、いまも取材を続けている。去年、彼の話を聴いて感銘を受けた。

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 今回、彼の写真の中で印象的だったのは、97歳のアンナさんというおばあさんが、ホロドモール当時の家族写真と一緒に映る一枚。

アンナさん(97)。ホロドモールの生き残りだという。(写真展の展示写真)

 ホロドモールは1932~33年にウクライナで少なくとも200万人が犠牲になったという大飢餓。ソビエト政権による人為的な食糧危機だった。

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 アンナさんはその生きのこりで、当時、親戚の子どもが誘拐されて食べられたという。「武器なき殺人」だった。アンナさん「私たちが武器を持っていないと、またホロドモールが起きてしまう」。

 実際、ロシア軍はいま食糧倉庫を狙って攻撃し、またホロドモールをやろうとしているのかとウクライナ人が怒っているという。今年はホロドモール90年。
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 広島でのG7首脳会議では「核兵器のない世界の実現に向けた力強いメッセージ」を発信するなどと意気込んでいた岸田首相。核軍縮をめぐる初のG7首脳文書、「軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」を出したものの、その内容は、「核の先制不使用」すら入らない、これまでと変わり映えしないもので、被爆者たちは失望しているという。

被爆者たちの失望の声。(TBS)



 21日のTBS「サンデーモーニングではゲストらがそれぞれ鋭く批判した。
 
 畠山澄子さんピースボート共同代表)は涙声でこう語った。

「世界を回って非核の声を届ける活動をずっとしていて、サーロー節子さんとも世界を回ったことがある。今回の広島サミット、被爆者のみなさん、ほんとに期待してたんですよ。被爆の実相をみれば何か血の通った言葉が最終成果文書に入るんじゃないかと思ってたんです。
 ふたを開けたら成果文書には「核の廃絶」という文字もない。「核兵器禁止条約」という文字もない。「被害者援助」の話もない。これまでのものと何ら変わらない。中国、ロシアを責めるのもいいですけど、G7諸国は核軍縮義務をちゃんと取り組んでいるのかと、被爆者の方、怒ってるんです。
 記者会見で被爆者のみなさん、口をそろえて「でもあきらめない」とおっしゃってたんです。だから、私もあきらめたくない。核のない世界のために、核はダメだって事を被爆者のみなさんと一緒に言い続けます。」

畠山澄子さん。(サンモニより)

 これを受けてジャーナリストの青木理さん

「岸田首相、今回も保有国と非保有国と橋渡しするんだと言ってて、それだけ聞いているとがんばってるのかなと思うかもしれないけれども、オバマ大統領が核の先制不使用を検討したときに、一番強く反対したのが実は日本だった、という事実もあるんです。

 広島、長崎という道義的責任を日本は追っていると思うんですけど。これをほんとうに果たしているのか、ある意味今回、非常に政治的な首相の地元のサミットが盛りあがったよね、首相の政治的なアピールになったよね、ということで済ましてはいけない。後退したんじゃないかという畠山さんの指摘はかみしめなくちゃいけないと思う。」

 

 寺島実郎さん。

「日本はアメリカの核の傘で守られてるんだから、核兵器禁止条約には入らないし入れないという判断をとっているわけですね。だけど世界では92カ国が署名して、68カ国が批准しているわけですよ。入れないにしても、この広島を機に一歩でも日本は踏みこんだのかというところを見せなきゃいけない。ビジョン語ってる場合じゃなくて行動。

 核兵器禁止条約をよく読んでください。第6条に核の被害者、被災地への援助というのがある。かりに条約に入れなくても、世界にはチェルノブイリ、南太平洋の核実験のあとの被災地だってあるわけですね、それを真剣に支援するというところで日本がスタンスを見せるなんていうのも半歩前進なんですよ。やれないことはないんですよ。ですからビジョンだけ語ってる場合じゃないよということだけ日本人としてよく自覚すべきだと思います。」

 

 目加田説子(もとこ)さん(中央大教授)

「今回のG7を見ていても、軍縮という問題に安全保障という面からばかりアプローチしてるんじゃないかと感じる。

 いま世界で注目されているキーワードに「ポリクライシス」がある。複合的危機と訳される。要するに戦争であったり気候変動であったり難民の問題であったり、あるいはパンデミックであったり、単体でも一つ一つがものすごく巨大な危機なんだけれども、それが同時に起きると1たす1が2ではなくて10にも30にもなって、より巨大なリスクを引き起こすという考え方なんですね。たとえば何らかの紛争が起きてそれがエスカレートして核戦争になってしまうと、地球全体の寒冷化を引き起こして食糧危機に陥るということで、核の問題をもっともっと複合的に広い視座でとらえながら議論していくことが文字通り本来であればG7で試みられるべきだったんじゃないか。それが目先のことばかりに核軍縮を捉えてしまうところに、発想の限界があるのではないか。」

 それぞれ、考えさせられるコメントだった。

サーロー節子さんは核抑止ではなく核廃絶をと訴えてきた。これからの若い世代に期待を寄せる(TBS)

 

金賢姫「実在」証明スクープの裏側③

 立夏」をすぎて節季は「小満(しょうまん)」

 あらゆる命が満ちていく時期、太陽を浴び、万物がすくすくと育つ季節、だそうだ。

歩道に初夏の花、タチアオイが咲く。早いな。花は下から順に上に咲いていく。

 21日から初候「蚕起食桑(かいこおきて、くわをはむ)」、26日から次候「紅花栄(べにはな、さく)」。末候「麦秋至(むぎのとき、いたる)」。麦の実りの季節は「麦秋」という。
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 ジャニーズ事務所の創業者、ジャニー喜多川氏(享年87)による性加害問題。

 藤島ジュリー景子社長がサイトで謝罪動画とQ&Aを発表。ジュリー社長は性加害について「知りませんでした」と弁明。第三者委員会による調査もしないという。

 これに近藤真彦が「知ってたでしょ」と批判。被害者たちの証言によれば、ジャニー氏がとっかえひっかえ指名する少年たちをホテルに届けセッティングするシステムが長年築かれており、いわば事務所ぐるみの「犯行」だった。ジャニーズ事務所の副社長をしていたジュリー氏が知らないはずがない。

 この性加害は、個人的な「性癖」ではなく犯罪である。被害者の多くは当時未成年で、今なおトラウマを抱える人も多いという。これが会社内でシステム化されていたのだから悪質極まりない。

 問題は半世紀も前から一部で報じられ、裁判で事実が認められても、マスメディアとくにテレビが取り上げてこなかったことだ。今回及び腰ながら報道がなされたのはBBCのドキュメンタリーが公開されたから。情けないていたらくに、ちまたでは「マスコミってほんとのこと報じてないんでしょ」と当り前のように言い交される。

 社会を覆うマスコミ不信を克服するには、タブーなき報道への不断の努力しかない
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 金賢姫「実在」証明スクープの続き。

 韓国で猖獗する「謀略」説のなか、四面楚歌でメディアに追い回され、夜逃げを強いられた金賢姫一家だったが、彼女は私たちが制作した二夜連続の特集に勇気づけられたと述懐している。

「2004年3月下旬、日本のテレビ局、日本テレビ系列の『ニュースプラス1がKAL機事件に関連して、特集番組「金賢姫17年間の真実」を二夜連続で放送しました。番組では担当捜査官が明かした極秘資料として、拉致された日本語の先生李恩恵とともに生活していた招待所の内部や周辺の様子など、私が作成した詳細な図表が公開されました。」(ママ、『金賢姫からの手紙』P129、金賢姫が手紙を書いた相手は李東馥(イ・ドンボク)氏。12日のブログで紹介した、彼女がかつて花束を渡した人物である)

2014年にソウルで金賢姫と。花束写真の発掘を感謝された。

 国情院(国家情報院、安企部の後継機関)は、大韓航空機爆破事件再調査委員会」をつくって、あらためて調査を行った。金賢姫は謀略説を裏でそそのかしているのは国情院だと信じ、度重なる調査要請には一度も応じていない。

 その「最終報告書」が07年に出された。「これまで『遺族会』をはじめ、市民団体、マスコミ、書籍などを通じて、320件余りの疑惑が提起された」といい、結論としては―

「事件の犯人である金賢姫を直接調査できなかったが、萩原遼氏が1972年11月2日に撮影した『花束を渡す少女』の写真をすべて入手して分析。金賢姫北朝鮮出身であることを確認し、事件の背後に北朝鮮の対南工作組織があり、当該組織の工作員である金勝一と金賢姫によってなされた事件であることを立証しうる状況と根拠などを確認した。
 委員会は、今回の調査を通じて『KAL858機爆破事件』の実体が、北朝鮮工作員によって起こされたものであることを確認した。したがって、以後、この事件の実体と関連してこれ以上、不毛な論議が続かないよう、根拠のない疑惑の提起を中断する一方、関係機関も法的な争いをやめ、関連記録の早急な公開等を通じて、この間の対立と葛藤を終息させ、真に国民和合の軸ができることを希望する。(略)」(P236-238)

 ここでも読売新聞による写真を萩原さんの撮影とする誤解が見られるが、少女時代の金賢姫北朝鮮にいたことを示す「花束少女」の写真を決定的な「証拠」として「根拠のない疑惑」を封じたことがわかる。

 それにしても、この「最終報告書」からは、「謀略」説がいかに大規模に流布され、韓国社会を分断したかをうかがい知ることができる。日本ではとても想像できない異常事態だった。それが、1987年の事件から20年も過ぎた廬武鉉政権末期にようやく「決着」したのである。

 私たちが制作した特集では使用しなかったある取材テープがある。謀略説を牽引した小説『背後―金賢姫の真実』(邦訳は幻冬舎より)の作者、徐鉉佑(ソ・ヒョンウ)氏へのインタビューだ。

 『背後』は「犯人は金賢姫ではなかった!?115人が死亡した大韓航空機爆破事件から17年。国家安全企画部が事件に関与している様を描き、韓国政界に激震が走った問題小説。今、全貌が明らかに。」(出版社による内容紹介)という内容の、2003年に韓国で出版された本で、著者の徐鉉佑氏は、「KAL858機真相究明対策委員会」所属調査委員長も務めた人物。

 はじめ徐氏はインタビューで「謀略」説を滔々と得意げに語っていた。ひとしきり語り終えた徐氏に、ディレクターが、読売新聞のライブラリーで発見された「花束少女」の写真を見せ、これをどう思うか尋ねる。すると徐氏の表情がみるみる変わり、あわてたように「こんな写真について、私が語る必要はない」といい、「撮影はやめてくれ」とカメラに怒鳴る。つづけて「きょうのインタビューを使ってはならない。もし使ったら訴える」と捨て台詞を残して去っていった。

 先日、このインタビューを日本語に訳してくれたSさんと話す機会があり、花束写真「発掘」スクープをめぐる一連のエピソードを懐かしく思いだしたのだった。

金賢姫「実在」証明スクープの裏側②

 G7首脳が広島にそろい、原爆の犠牲者たちを追悼した。

NHK国際報道より

 これまで観たことのない光景で感慨深い。首脳らの平和記念資料館見学のようすは非公開だが、資料館から出てきた一般の外国人のなかに言葉を詰まらせる人がいるのも印象的だった。

 私は恥ずかしながら、広島、長崎いずれの原爆資料館も入ったことがない。ぜひ今年中にどちらかには訪れたいと思う。

 ウクライナのゼレンスキー大統領が広島を電撃訪問した。

 彼、19日にはサウジアラビアアラブ連盟首脳会議に出席し、会議の参加者の中にウクライナの苦しみを「見て見ぬふりをしている」者がいると訴えている。どこにでも乗り込んで必死にさらなる支持、支援を獲得しようと奮闘する姿をウクライナ国民は頼もしく見ていることだろう。

NHK国際報道より

NHK「国際報道」より

 ロシアが武器を置けば戦争は終る。
 ウクライナが武器を置けばウクライナが終る。

 ロシアに武器を置かせるためには、ウクライナへのさらなる支援が必要だ。
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 金賢姫「花束少女」のエピソードの続き。

 1972年11月、金賢姫は韓国使節団に歓迎の花束を渡す生徒に選ばれ、平壌近郊の力浦のヘリポートにいたと証言する。

 これが確認できれば、金賢姫は確かに北朝鮮の人間であることになる。

 このイベントを取材していた日本共産党の「赤旗」特派員の萩原遼さんが撮った写真には金賢姫は映っていなかった。しかし、当日は読売新聞取材班(3人)も取材しており、写真部の三石英昭氏が別角度から撮った写真に金賢姫らしい少女が映っていたと萩原さんは後に知らされる。

 私は萩原遼さんとは長いお付き合いで、よく会ってお酒を飲んだりもしていた。その写真については萩原さんに直接聞いていた。

「その写真をぜひ発表してくれと頼んだが、三石さんは、こんな写真を出したら身が危ないと出してくれなかった」と萩原さんが残念そうにいう。

 ちょっと待てよ。その写真は個人的な記念に撮ったスナップ写真ではなく、新聞社のニュース用に撮影したものだ。写真の権利は三石さん本人ではなく、読売新聞社にあるはずだろう。三石さんはすでに故人になっていた。

 読売新聞社の写真のライブラリーを見たいと思うが部外者は入れない。読売には知り合いが何人かいたが、当時親しくしていたのは、読売ウィークリー』にいた藤原善晴さんだった。そこで、藤原さんに事情を話し、72年の写真を探してもらえないかと持ち掛けた。「出てきたらすごいスクープだよ」と言って。2003年の11月中旬のことだった。

 写真が出てくることを前提に、番組を準備し始めた。11月22日には萩原さんを自宅でインタビューしている。

 12月1日、韓国の友人のジャーナリストから、最近、野田峯雄氏がKAL機事件関連の集会に招かれて講演し、彼の本が韓国語に翻訳され、三大TVがこぞって謀略説のドキュメンタリーを製作していると知らされる。野田氏の『破壊工作~大韓航空機「爆破」事件』(1990年)は「謀略」説の代表的な本であり、韓国はいよいよ「謀略」ブームに勢いがついているようだ。

 12月2日、藤原善晴さんから連絡があった。金賢姫らしい少女が映っているネガ3枚を見つけたこという。5日夕方、ホテルオークラで藤原さんを萩原さんに紹介し、ネガを見てもらう。金賢姫の特徴的な耳の形をもつ少女がいる。間違いない!

 東京歯科大の橋本正次助教授に鑑定してもらうと、同一人物として「矛盾はない」との結論になった。

読売ウィークリー」で初めて公開された写真。③が金賢姫

 これは読売ウィークリー』の04年1月4,11日号に「スクープ!『一枚の写真』が暴く金賢姫論争16年目の真実」として発表された。

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 私たちは、この花束少女写真に加えて、金賢姫をもっとも早くから取り調べに当たった当時の安企部捜査官に当時の捜査資料を開示してもらい、判明した新たな事実を盛り込んで特集を制作。3月末、日本テレビの夕方ニュース「ニュースプラス1」で二日にわたって放送された。

 安企部の未公開捜査資料をもとにした田口八重子さんはここにいた!−極秘捜査資料が語る金賢姫の真実−」が初日29日の特集。写真に焦点を当てたのが二日目の30日に放送された「“花束の少女”を追え!−発掘された金賢姫スクープ写真の謎−」だった。

 この写真の発掘は、韓国における論争にも決着をつけた。
(つづく)

統一教会によるスラップ訴訟との闘い

 きょう午後、東京地裁で「旧統一教会スラップ訴訟・有田芳生事件」の第1回口頭弁
論があった。傍聴席68は満席。

東京地裁

 この訴訟は、去年8月19日の日本テレビ「スッキリ」にゲストとして出演した有田さんの以下の発言が名誉棄損だとして、世界平和統一家庭連合(旧統一協会)が有田芳生さんと日本テレビ放送網に損害賠償を求めて起こしたものだ。

「一時期距離を置いていた国会議員たちも、もう一度あの今のような関係を作ってしまったっていう、その二つの問題があるというふうに思うんですが、どうすればいいかっていうのは、やはりあのもう霊感商法をやってきた反社会的集団だってのは警察庁ももう認めているわけですから、そういう団体とは今回の問題をきっかけに、一切関係を持たないと、そういうことをあのスッキリ言わなきゃだめだと思うんですけどね。」

 統一協会側は、この発言が原告(統一協会)の「社会的評価を著しく低下させ、その名誉を棄損する」として慰謝料2200万円と謝罪広告の掲載を求めて10月27日に提訴している。

 有田さんは意見陳述の最後を以下のように締めくくった。

統一教会は私の発言を名誉棄損としました。『霊感商法統一教会』とは、日本社会ですでに40年以上も前から広く知られている事実です。警察庁による監視もまた事実です。いまさら私の小さな発言で教団の名誉がさらに低下するでしょうか。

 ましてや私が統一教会から訴えられたのは、自民党幹部は教団との関係を断つべきだとの長い発言の文脈から離れた短い意見についてでした。それから私のテレビでの仕事は一切なくなりました。メディアも様変わりで、統一教会の狙い通りです。教団や信者弁護士はさぞかしうれしかったことでしょう。教団は根源的な批判的言論から一時的に逃げることができたとしても、事実と真実を隠すことはできません。

 私は今回訴えられたことを誇りに思っています。私はこの裁判を通じて、統一教会の反社会性を徹底的に明らかにしていきます。

 闘争宣言である。私を含め何人かが拍手したら、裁判長から「拍手はしないように」とたしなめられた。(笑)

 教団は去年9月29日、以下の3件の訴訟を提起している。

①    紀藤正樹弁護士と読売テレビ(「文鮮明死後の分派の一つが、信者に売春させたという事件まである。お金を集めるためには何でもするという発想」という「ミヤネ屋」7.20OAでの発言)、

②    八代英輝弁護士とTBS(「かずかずの消費者被害を生んだカルト団体。外形的犯罪行為に着目している」との「ひるおび」9.1OAの発言)、

③    木村健太郎弁護士と読売テレビ(「司法の判断として、布教活動自体が違法で、違法な組織と裁判所が認定済み」との「ミヤネ屋」9.2OAでの発言)

 さらに有田芳生裁判提訴と同日、10月27日には以下を訴えた。

④     紀藤正樹弁護士とTBSラジオ(「統一教会暴力団を使って信者を偽装脱会させて問題となった時期がある」との「おはよう一直線」9.9OAでの発言)

 これらはみなスラップ訴訟と見られている。

 口頭弁論のあと、日比谷図書館で報告集会があり、世耕弘成経済産業大臣から2019年にtwitter上の発言で名誉棄損訴訟を提起された中野昌宏青山学院大教授から連帯の挨拶が届いた。やはりこれもスラップ訴訟だった。

「スラップというのは基本的に言論事件です。事実を争うというよりは、自分を追求してくる『敵』を消耗させ疲弊させることが目的です。そのためなら、少々お金がかかっても、裁判自体に負けてもいいのです。相手が『そんな面倒なことになるなら、黙っておこう』となればしめたものなのです。

 そうしたコストを余裕で払える強者―とくに組織―が、もの言う個人を押さえ込む。このような、裁判制度の悪用がスラップ訴訟の本質だろうと思います。統一教会が有田さんや紀藤弁護士などを訴えたのも、有田さんや紀藤弁護士が弱者というわけでは必ずしもなくても、統一教会追求者の力を少しでも削ぎ、足止めするとともに、有田さんたち以外の人々も同時に萎縮させることが目的でしょう。

 したがって、私たちは萎縮してはなりません。いま攻撃されているのは有田さんたちだけでなく、おかしいことはおかしいと口にする、私たち全員なのですから。(略)

 組織に対抗するには、こちら側も束になる必要があるでしょう。連帯してがんばりましょう。」

 私も名誉棄損で訴えられたことがあるが、裁判はものすごい労力、費用、時間がかかり疲れることを実体験している。もう裁判なんかいやだと思ってしまう。訴訟を提起する方は、それが狙いだ。同時に他の人たちに「あの組織に盾つくとえらい目にあう」ことを見せつけて批判を封じようとする。

 実際、今回の訴訟が起こされると、テレビ局はじめマスコミが有田さんを出さなくなった。スラップ訴訟は大きな効果を発揮したわけで、この限りでは教団側の「勝ち」である。

報告集会はおよそ150人が集って熱気があった。島薗進東大名誉教授の記念講演「統一教会問題の特異性」もあった(有田さんのツイートより)

報告集会で発言する東京新聞の望月衣塑子記者。他に佐高信さん、鈴木エイトさんらが発言。

 報告集会で応援の発言に立った評論家の佐高信さんは、マスコミはまた統一教会のことを報じなくなっていて「再び空白の30年か」と思わせると懸念する

 この裁判に勝利するのが大事なのはもちろん、私たち自身が萎縮しないぞという姿勢を保ち続けることが肝要だ。

報告集会が終った夕方の日比谷公園。緑が美しい。

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 12日、日本維新の会の梅村みずほ参院議員入管難民法改正案の審議で、入管施設に収容された外国人の支援について「支援者の助言は、かえって収容者にとって見なければよかった夢、すがってはいけない『わら』になる可能性もある」と述べ、一昨年に名古屋入管で亡くなったスリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんの事例を取り上げ、長期収容を避けるため、難民申請中の送還を可能とする改正案に賛成した。

 梅村氏は「資料と映像を総合的に見ると、よかれと思った支援者の一言が、ウィシュマさんに『病気になれば仮釈放してもらえる』という淡い期待を抱かせ、医師から詐病の可能性を指摘される状況へつながったおそれも否定できない」と主張。面識のない収容者に次々と面会する支援者がいることを批判した。

 つまり、支援者が「病気になれば仮釈放されるよ」と入れ知恵したのでウィシュマさんが病気のふりをした可能性があるという意味だろう。長期収容者の実態を知る人たちを激怒させる発言だ。梅村議員は維新を代表して質問しているわけで、この党の見識が問われる。

 梅村議員はツイッターで「本日、参議院本会議にて初登壇させていただきました。少しばかり、波乱の初陣となってしまいましたが、Twitterにも新しくフォロワーさんが増えてありがたいことです!」と得意げな様子。恥知らずとはこのことだ。

 梅村議員の発言について、入管への長期収容問題を長く取材してきた友人のジャーナリスト、樫田秀樹さんが、冷静に事実関係の無知を指摘した。

「被収容者は病気になったからといって即仮放免されない。私も収容施設で多数の被入所者と面会したが、病気になる→即仮放免との事例は一例も知らない」と。

 入管は被収容者が「体調が悪い」と訴えても、仮放免をするどころか、そもそもちゃんとした治療や入院の手配をしない。それがウィシュマさんの死を招いたのだった。前提となる状況認識が間違っていれば、結論がおかしくなるのは当たり前だが、そもそも事実を見ようとしていないのだろう。
 
 自民党の谷川とむ衆院議員「ウィシュマさんのビデオを見るまで、入管職員がウィシュマさんを邪険にしているのではないかと思っていたが、よく声をかけたり、よく話を聞いたり、献身的に対応していた」。マジ?

「入管職員の対応を見ると、ウィシュマさんによく声をかけたり、よく話を聞いたり、介助や身の回りの世話を献身的に対応していたと感じました・・・」と谷川議員。これには絶句する


 入管の冷酷で残酷な対応はウィシュマさんの妹を号泣させたのだが、谷川議員、どれほど偏見に満ちた目で、あの映像を見たのか。こうやって事実は捻じ曲げられていく。 

金賢姫「実在」証明スクープの裏側

 スクープを狙うのはジャーナリストの常だが、スクープと言ってもいろいろある。

 新聞記者の世界で典型的なのは、いずれ発表される情報を他社より早く「抜く」スクープだ。単純明快だが、予定より数日、あるいは数時間早く報じられることで、世の中が変わることは少ない。

 私は、社会の動きに影響を与えるスクープにかかわる幸運に何度か恵まれたが、その一つが金賢姫(キム・ヒョンヒ)の「実在」証明だった。

 金賢姫は1987年11月29日にインド洋アンダマン海上空で大韓航空(KAL)機を時限爆弾で爆破して墜落させ、乗客・乗員計115名を死亡させた実行犯だ。金賢姫北朝鮮工作員であり、この爆破任務を、金正日の「親筆指令」(直接に下した指令)として遂行したと証言している。(金賢姫『いま、女として』(上)P183)

 一方、北朝鮮はこのKAL機爆破事件を一貫して否認し、事件は韓国情報機関の「謀略」だと主張している。つまり韓国側の「自作自演」だというのだ。当然、金賢姫なる人物はそもそも北朝鮮の人間ではないということになる

 この「謀略」説は、日本でも一時かなり流布され、私自身、これに傾いていたほどだ。しかし、事件後に明らかになったさまざまな事実から、北朝鮮工作機関の仕業であることは明らかになっていく。

 ただ、韓国においては、事件の犠牲者の遺族会を中心に、謀略説が脈々と生き残り、2003年秋以降、廬武鉉(ノムヒョン)政権下で一気にその影響を広げた。

 MBC文化放送)の『16年間の疑惑―KAL機爆破犯金賢姫の真実』という番組をはじめ三大テレビ局がこぞって謀略説に立った番組を製作し放送した。謀略説に依拠した本も出版され、日本では想像できないような異様な世論が形成された。

 焦点は、唯一の証言者である金賢姫の「真贋」だった。

 自身の正体を隠して夫と二人の子と静かな家庭生活を送っていた金賢姫のもとにマスコミの取材が押し寄せ、韓国の情報機関からの嫌がらせまでうけたため、一家は避難生活を余儀なくされるにいたった。この動きは韓国の政権自体がつくりだしたものだけに、謀略説は大きな広がりをみせた。

 この謀略説の息の根を完全に止めたのが、私の関わったスクープだった。以前、これについては本ブログで書いたが、今回はその舞台裏を後世への記録として記しておこうと思う。

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 金賢姫北朝鮮の人間であることを示す決定的な「証拠」となったのは、彼女が1972年に日本のジャーナリストによって撮影された写真だった。ただ、そこにたどりつくまでには紆余曲折があり、さまざまな「論争」を経なければならなかった。

 金賢姫「1972年11月、南北調節委員会会談の際に、花束を渡す生徒として平壌近郊の力浦のヘリポートにいた」と証言している。彼女が中学1年のとき、民族衣装を着て韓国側代表団に歓迎の花束を渡したという。このイベントは、韓国はもちろん日本のメディアも取材していたのだから、写真が一枚出てくれば、金賢姫北朝鮮の人間であることが証明されるはずである。

 ところがここで混乱が起きた。韓国当局が、金賢姫だとして出してきた写真の少女は別人だったのだ。

 次に日本共産党が、党の写真雑誌『グラフこんにちは』(88年3月6日号)に「金賢姫らしい少女」を載せた。撮ったのは72年当時の日本共産党機関紙『赤旗平壌特派員の萩原遼さんだ

 これは政治的には、日本共産党による朝鮮労働党への決別宣言だった。日本共産党社会党が謀略説に傾くなか、事件当初から「北朝鮮の犯行」と見ていたのだ。

 ところが、である。これまた人違いだったのだ。北朝鮮は勝ち誇って、この少女は、平壌在住の「チョン・ヒソン」という女性だとして本人を記者会見に登場させた。北朝鮮の「勝利」である。謀略説は勢いづいた。

萩原遼さんが撮影した花束少女たち。矢印の少女を「金賢姫らしい少女」と指摘したが、別人だった。耳の形が全然違っている。金賢姫はこの少女の隣にいた。(『グラフこんにちは』より)

 花束の少女たちの中に金賢姫がいれば、金賢姫の証言通り、爆破は北朝鮮の犯行だということになり、逆にいなければ金賢姫はウソをついており「謀略」の可能性が高まる。「花束少女」をめぐる論争は「決戦場」と化した。

 実は、金賢姫はこの少女の隣に立っていたのだった。萩原さんの写真では、前の少女の陰になり顔が隠れて見えない。そしてこの現場を別の角度から撮った写真に金賢姫が写っていたのである。

 それは72年のイベントを取材に北朝鮮まで出張してきた読売新聞写真部の故三石英昭氏が撮ったもので、萩原さんは後日、三石氏からその写真を見せられていた。その写真を出していれば、早く決着がついたはずなのだが、三石氏は、こんな写真を表に出せば命が危ないと発表をかたくなに拒否していたという。北朝鮮ネタに触ることは当時、ここまで恐れられていたのかと感慨深い。

 結論から言うと2004年、私たちの取材でその写真は出てきて謀略論争を終わらせたのだが、この顛末を萩原さんが語っている記事があるので紹介しよう。

 2011年7月12日、ソウルのホテルで奇遇な縁で結ばれた3人が再開した

 金賢姫と72年に南北調節委員会の韓国側報道官として北朝鮮に行って金賢姫から花束を受け取った李東馥(イ・ドンボク)氏、そして『赤旗』の元平壌特派員、萩原遼さんだ。当時は互いに誰かを知らなかったが、39年ぶりの再会となる。

39年ぶりに「再会」した3人。左から李氏、金賢姫萩原遼さん(朝鮮日報より)

 以下、ちょっと長いが、『朝鮮日報』の記事を引用する。

《萩原氏は金元死刑囚にとって一生の恩人だ。

 「一度お会いして、お礼を言いたかった。過去の政権下で私は完全に『偽者』扱いされ、逃げるように姿を隠さなければならなかった。そのとき、萩原さんが写真を探し出し、私が『本物』だということを証明してくれた」

 そう語る金元死刑囚の言葉は震え、目には涙が浮かんでいた。

 萩原氏は大韓航空機爆破事件の後、金元死刑囚の姿がマスコミを通じ報じられると、1988年に日本共産党の画報で、花束を持つ金元死刑囚とみられる少女の姿を公開した。萩原さんは写真の少女を「金賢姫に似た少女」と説明した。しかし、萩原氏が指摘した少女は実際には金元死刑囚ではなかった。耳の部分や顔の特徴があまりに違っていた。北朝鮮は萩原さんの指摘は誤っているとして、「写真の少女は全く別の人物であり、爆破事件は捏造(ねつぞう)だ」と攻撃してきた。

 論争はそれで終わるかに見えた。しかし、2003年に盧武鉉ノ・ムヒョン)政権が発足後、「真実・和解のための過去史整理委員会」(以下、真実和解委)は「大韓航空機爆破事件は、政権を守るため、国家安全企画部(現在の国家情報院)が捏造した事件だった」との世論形成に乗り出した。左派陣営のメディアと知識人は「爆破事件は完全に捏造だ。金賢姫北朝鮮出身ではなく、工作員でもない」と責め立てた。写真についても再び論争の種になった。

 その際に真実の究明に乗り出したのが萩原氏だった。萩原氏は自身が指摘した少女が金元死刑囚ではなかったことを潔く認めた上で、ほかの証拠を探した。その過程で、当時現場を共に取材した読売新聞の写真記者が別の角度から少女を撮影した写真を持っていることが分かった。そこで読売の記者に「自分が誤報を認めた上で、あなたが撮っ写真を公表すれば、テロの標的になる危険があるというのが理由だった。公表すれば、テロの標的になる危険があるというのが理由だった。

 しかし、萩原氏が1年以上にわたり説得を続けた結果、読売記者は2004年、「ウィークリー読売」に自身が撮影した写真を掲載した。東京歯科大の橋本正次助教授は写真の鑑定を行い「少女の耳、唇の右側にある吹き出物の跡が金元死刑囚と一致する」と指摘した。

 萩原氏は「自分が誤ったことを証明するため、1年以上にわたり読売記者を説得した。記者生命が終わるかもしれなかったが、真実を明らかにすることの方が重要だった」と語った。

 新たに公開された写真は、金元死刑囚が北朝鮮出身の工作員だったことを証明する決定的な証拠となった。07年に真実和解委も「大韓航空機爆破事件は捏造されたものではない」と正式に発表した。》

朝鮮日報)2011年07月13日https://kankoku-keizai.jp/blog-entry-981.html

 亡くなった萩原さんとは親しくお付き合いしていただき、多くのことを学んだ。感謝し、また尊敬もしている。しかし申し訳ないが下線部の事実関係は違っている。

(つづく)

中村哲医師と不動明王2

 夜のニュースを伝えるテレビに怒鳴ってしまった。
    衆議院であの入管法改正法案が採択された。

 「不法滞在中の外国人が入管施設で長期収容されている問題の解消を図る入管法改正案は9日、衆院本会議で賛成多数で可決され、衆院を通過した。審議は参院に移るが、一部の野党側は同日、難民認定手続きを担う第三者機関の創設を柱とする対案を参院に提出し、対決姿勢を打ち出した。(略)立憲民主党共産党などが参院に提出した対案は、難民認定の第三者機関を設置するとしたほか、外国人を収容するかどうかの判断に裁判所を関与させる仕組みを設けるとしている。参院では政府提出の改正案と、一部野党側提出の対案が審議される見通し。」(毎日新聞

 政府の改正案には最後まで反対していく。

あるツイートより

 一人でも声を上げるという行動はすばらしい。見習いたい。

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 中村哲医師がパキスタンの北西部、アフガニスタンに近いペシャワールに赴任するきっかけになったのは、1978年6月の福岡の山岳会のティリチ・ミール遠征隊にお付きの医師として同行したことだった。

「私を最初にこの地と結びつけたのは、雄大カラコルムの自然と私の好きな蝶であった。何も初めから医療奉仕などという大それた考えがあった訳ではない」と中村さんはいう。

 このとき中村さんは31歳で、初めての海外旅行だった。

 ティリチ・ミールはヒンドゥークッシュ山脈の最高峰で、遠征隊が登っていく道すがら、医者がいると分かった村人たちが押し寄せてきた。

「我々が進むほど患者の群れは増え、とてもまともな診療ができるものではなかった。有効な薬品は隊員達のためにとっておかねばならぬ。処方箋をわたしたとてそれがバザールでまともに手に入るとは思われない。結局、子供だましのような仁丹やビタミン剤を与えて住民の協力を得る他はなかった。

 ある時、咳と喀血で連れてこられた青年がいた。父親が治療を懇願した。診ると明らかに進行した結核だったので、直ちに町へ下りて病院でちゃんとした治療を受けるように申し渡した。ところが、父親が答えていわく、

『町でちゃんとした治療が受けられるなら、わざわざ二日もかけて先生のところまでこない。第一チトラールやペシャワールに下るバス代がやっとで、病院についても処方箋だけ貰ってどうせよというのか。』

 これには返す言葉がなかった。(略)こんなところに生まれなくてよかったと割り切ればそれまでだが、私はどうしてもそれができなかった。しかも病人は彼だけでなない。みちすがら、失明しかけたトラコーマの老婆や一目でらいと分かる村人に、『待ってください』と追いすがられながらも見捨てざるを得なかった。重い気持ちでキャラバンの楽しさも半減してしまった。(略)

 その後、私は憑かれたように機会をみつけてはパキスタンを訪れた。バザールの喧噪や荒っぽい人情、モスクから流れる祈りの声、荒涼たる岩石沙漠、インダスの濁流。総てこれら異質な風土も、かえってなじみ深い土地に帰って来るような不思議な郷愁にとらわれるのだった。そして、最近流行のこざかしい日本人論を超えて、人はやはり人であるという、当然だが妙な確信を得てほっとするのであった。」

 そして中村医師は、自らをペシャワールに導いたものをこう語る。

「その後の不思議な縁の連続は、五年後にこの北西辺境州に私を呼び戻したようである。当地への赴任は最初にヒンドゥクッシュ山脈を訪れたときの一つの衝撃の帰結であった。同時に、余りの不平等という不条理に対する復讐であった。」(『ペシャワールにて』P10-12)

 前号に紹介したように、不条理への復讐を、中村さんは息子さんを亡くしたとき、あらためて誓うのである。中村さんの生涯は、この復讐に貫かれていたといっても過言ではないだろう。

灌漑で耕地と化したガンベリ沙漠の公園に建つ記念塔。20年9月に建てられ、中村さんの似顔絵が描かれている(筆者撮影)

農村。家が高い塀で囲まれ、戦いのときは「城」となる(筆者撮影)

 世間では中村哲さんは「平和主義者」ということになっていて、争いごとはいっさいしない微笑みの人、みたいなイメージを抱く人がいるが、激しい闘いの人生をあゆんだと私は解釈している。

 この「復讐」という言葉は、現地の倫理のベースになる慣習法に響き合うのだが、これについては以下。

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