関東大震災の虐殺100年によせて9

 杉良太郎、見なおした。

20日の朝日夕刊一面

 44歳のときから35年間、ベトナムの孤児だちを支援しつづけ、なんと200人もの里子を迎えてきたという。そのなかの一人、グエン・タン・ガーさんは、病気で両親を亡くして孤児院にいた12歳のとき、杉と出会って里子になり、大学に合格して日本語を学び、今では杉がベトナムに建てた「ヌイチュック杉良太郎日本語センター」で日本語を教えている。

 杉良太郎は毎年ベトナムの孤児院や盲学校を訪れ、里子には全員分の生活費や医療費、塾に大学の費用まで必要なものはすべて出してきたという。

 売名かなと思っていたが、それだけで35年も持続できない。いや、ここまでくれば、たとえ売名でもいいよ。立派。
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 NHKの朝ドラ「らんまん」が関東大震災にさしかかった。

 植物の標本をとりに家に戻るという万太郎に、息子が、「慶応大学では武器庫が破られて武器が持ち出されている。人間がおかしくなっている。植物どころじゃない」と止めようとするシーンがあった。

自警団の検問所を通る万太郎

万太郎がお世話になった印刷所は神田にあった。神田駿河台関東大震災の碑(筆者撮影)

 吉村昭関東大震災を読んでいたら、朝鮮人に関する流言がひろまるや、自警団が一斉に武装し、「凶器を手にするため慶応大学の銃器庫に押し寄せさえした」との記述があった。

《9月2日夕刻、東京市芝区三田方面では、朝鮮人来襲の流言におびえた住民多数が慶応大学構内に避難した。その際前田某という青年団の幹部が、朝鮮人に対抗する武器を入手しようとして他の青年団員を指揮して同大学倉庫に入り、銃及び剣を持ち出した。銃は三八式、三〇式、二二式各歩兵銃とレカンツ銃で、その他指揮刀、短剣、計数百挺に及んだ。
 武装したかれらは、昼夜交代で路に検問所を設け、隊を組んで町内を巡回した。》(P179)

 大学に武器庫があったとは知らなかった。

 「らんまん」では大杉栄伊藤野枝の虐殺(甘粕事件)も会話に出てきて、たしか「かわいそうに」というセリフがあった。

大杉栄伊藤野枝、長女の魔子。(事件の2カ月前)

 事件が起きたのは9月16日。すでに東京の市街自動車や乗合自動車、電車も復旧しはじめており、政府は朝鮮人虐殺を抑えにかかっていた。

 無政府主義者大杉栄と内妻の伊藤野枝は、震災の被害の大きかった横浜の鶴見に住む大杉の弟の勇の自宅を訪ね、無事を確認した。甥の橘宗一(6歳)が「東京の焼け跡を見たい」とせがむので連れて東京に戻ったところ、横浜の憲兵特高課に連行された。その後、3人は大手町の憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって扼殺され、遺体は井戸に遺棄された。

 これが「甘粕事件」(大杉事件)だ。はじめ陸軍省はその事実をひたすらかくすことにつとめたが、新聞2社がこれを知り、20日夕刻、号外を印刷した。警視庁はその号外を差し押さえ、報道を禁じた。風説が広まったため、24日、陸軍省は甘粕大尉が3人を殺したことと軍法会議にかけることだけを発表した。

 軍法会議で犯行の詳細が明らかになると、大杉栄が著名人であったことや、28歳の伊藤野枝やわずか6歳の甥までが残忍に殺されたことに、世間からも非難の声があがった。時事新報は「陸軍の大汚辱」と書き、東京日日新聞は「軍人の敵 人道の賊」と非難した。

 陸軍は、この殺害事件が甘粕大尉らの個人的な行為で、陸軍とは全く関係がないとした。その一方で、甘粕大尉の行動が国のためを思ってのことだったと訴えた
「甘粕は、個人的な恨みや私利私欲のために殺害事件を起したのではない。あくまでもかれは、軍人として国家のためを思い大杉らを殺したのである」と。

 一般大衆のなかには、甘粕を愛国者と称賛する動きもあり、減刑嘆願署名が65万筆も集まったという。軍法会議の判決は、甘粕正彦大尉に懲役十年という驚くほど軽い刑言い渡した

 甘粕は3年で仮釈放になりフランスに渡る。そして昭和5年(1930年)に満州に向かい、満州国成立とともに要職に就き、退官して満映理事長として映画界の大立者となった。満州終戦を迎え、昭和20年、「大東亜戦争終結詔書」を朗読する玉音放送の5日後の8月20日、青酸カリを飲んで自殺している。

3年で仮釈放され、記者会見にのぞむ甘粕正彦(中央)(wikipediaより)

 この事件は甘粕ら一部の憲兵による突出した行動だったが、16日付の本ブログに紹介したように、警察庁は、9月5日、正力松太郎官房主事と警務部長名で、社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよとの通牒を出し、さらに11日には正力官房主事から、社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れがあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよと命令を発していた。

 大杉栄を殺せという直接の命令があったわけではないが、大きな構図としては、どさくさに紛れて、やっかいな反政府活動家を抹殺したい権力の意向を汲んだ行動といえるだろう。

 ところで、大杉栄の内縁の妻、伊藤野枝はとてもおもしろい女性だったようだ。元夫との間に2人、大杉との間に5人の子どもを産みながら反権力の道を自由奔放に生きていた。

 野枝の妹、ツタの話が興味深い。

 「私は、とうとうひとりも自分の子供がうめなかったのに、姉は十年に七人の子を産んで今の年でいえば二十八で死んでいったのですからね。それだけだって、たいへんな生命力ですよ。産後二十日で、大杉とあの物騒な時に横浜まで出かけるなんてねえ。でも、今でも時々、ひとりで思うことですが、震災がもう半年おそかったら、野枝たちは殺されていなかったんではないかということです。それというのも、本当のところ、あの人たちも子供だちのことを考えて、もうこんな危ないことはやめようといって、転向の用意をしていたんですよ。私どもにもそういっていましたから。」(瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』P44)

(つづく)

 

いま脚光を浴びるリトアニア

 きょうは猛暑のなか、背丈より高く茂った雑草を抜きながらジャガイモを収穫するという重労働をやって日射病寸前になった。この辺は32度くらいになっていたはずだ。いつになったら秋の涼しさがやってくるのか。

シロザという雑草でジャングルのようになったイモ畑。大きなものは2人がかり、3人がかりで引き抜く。まるで「大きなカブ」みたいに

 畑から早々に撤退して、昼食時にたまたまテレ朝の「ワイド!スクランブル」をつけていたら、バルト三国の一つ、リトアニア共和国の駐日大使、オーレリウス・ジーカス氏が生出演して「リトアニア特集」をやっていた

ワイド!スクランブル」より

 リトアニアといえば、日本とのかかわりでは、第二次大戦中にカウナス総領事だった杉原千畝ちうね)がナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人に「命のビザ」を発給したことで知られるくらいで、あまりなじみがない。

 私は40年前にバルト三国を訪れ、それが初めての海外取材だったので、とても印象に残っている。当時はソ連の一部だったが、ロシアに対する嫌悪感、拒否感の強さに驚いた覚えがある
 日本人はバルト三国のことを知っていますか、と聞かれ、日露戦争バルチック艦隊と戦ったことは知られています」と答えると、一気に座がしらけた。あれはロシアがやったことで、私たちとは何の関係もありませんと、がっかりした顔で言われ、恥ずかしい思いをした。

 リトアニアは1940年、スターリンヒトラーの秘密協定でソ連領にされた。圧制に苦しんだ末、1990年3月、ソ連連邦構成共和国の中でいち早く独立を宣言する。これを認めないゴルバチョフが軍隊を投入したが、市民は体を張って抵抗、多くの死傷者を出しながらも独立を守り抜いた。

 その独立運動の過程を描いたのが映画『ミスター・ランズベルギス』で、これを観て、すっかりリトアニアびいきになった。

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 リトアニアは、人口300万人弱、面積は北海道より少し小さい、小国であるウルグアイホセ・ムヒカ元大統領といい。小国にはときにすごい人物がリーダーに現れる。リトアニアの場合、大国ロシアとのせめぎ合いのなかで、いかに独立を守っていくか、懸命に知恵を絞って国を運営している。その明確な国家目的にかなった人材が輩出されるのだろう。

 ジーカス大使は、スタジオでの受け答えがとても気さくでオープンな「いいやつ」だった。世界で一番難しい言語と聞き、日本語に挑戦したといい、金沢大学と早稲田大学に留学経験がある。スタジオのどんな質問にも実に流暢な日本語で即答していた。

 リトアニアのここ数年の政策は、ロシアの動向に鋭敏にそして大胆に対応している。2014年にロシアがクリミアを併合すると、翌15年、徴兵制を復活し、男子に9カ月の兵役義務を課した。軍事費はクリミア併合前のGNP比1%から去年は2.52%に急増させている。またガスと石油のロシアへの依存率がほぼ100%だったのを、現在はなんとゼロにしている。このエネルギー供給元の変更には大変な痛みが伴ったと想像するが、ロシア以外から輸入するためのLNG基地を早くから建設するなど、しっかりした準備があったから可能になった。政策の善し悪しの評価は人によって異なるだろうが、戦略性をもった臨機応変のかじ取りには感心させられる。

 リトアニアは、ウクライナ支援を基も熱心に行っている国の一つで、その理由を聞かれたジーカス大使、「もしウクライナが負けたら、プーチンは次のところを侵略します。だからウクライナを勝たせるしか道はないのです」と答えた。ベラルーシとロシアの飛び地、カリーニングラードに国境を接し、ロシアに対する警戒感がウクライナへの強い連帯につながっている。

 おやっと思ったのが、「リトアニアウクライナと500年間いっしょの国でしたから」理解し合える仲間だと言ったとき。500年間いっしょの国だったって?

 調べると、リトアニア大公国というバルト海から黒海まで達する巨大な国家が13世紀から1795年まであった。たしかに「500年間いっしょ」だった!

1387年頃のリトアニア大公国の領土(Wikipediaより)

 そして夕方、これもたまたまTBSの「Nスタ」をつけていたら、またジーカス大使が出ていた。大使館の中で、民族衣装を着た2人の可愛い娘さんと登場。その後は、襟元にピンマイクを付けられて、大好きな回転寿司を楽しむという企画。

 ウクライナ侵攻で急にスポットライトが当てられた格好のリトアニアだが、この機会にちゃんと歴史や文化を勉強しよう。

日本の仏教界はなぜ戦争に協力したのか

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑にお参りに行ってきた。

 毎年一度は行くのだが、今年はきょう9月18日の柳条湖事件の日にした。1931年(昭和6年)のこの日、満洲奉天(現・瀋陽市)近郊の柳条湖で、関東軍が満鉄(南満洲鉄道)の線路を爆破し、中国軍による犯行だとして満州事変につながっていく。

 いつもは閑散としているのだが、きょうは浄土宗本願寺派西本願寺)による「全戦没者追悼法要」がとり行われており、貸し切り状態だった。この宗派では、1981年からここで法要を行っていて43回目になるという。

戦没者追悼法要が行われた千鳥ヶ淵戦没者墓苑。気温33度(筆者撮影)

ここは約37万柱の引き取り手のない遺骨が納められた国立の無宗教墓苑。いわば日本の無名戦士の墓である(筆者撮影)

 私が毎年千鳥ヶ淵に慰霊に行くのは、ここに私にご縁がある600柱を超えるご遺骨が納められているからだ。40年近く前、フィリピンの日米の激戦地コレヒドール島で、おそらく太平洋戦争で唯一の大規模な日本兵の集団墓地を「発見」した。それは私にとって初めての大きなスクープで、日本の戦争、人の生き死になどについて考えさせられた。そんなことがあって、年に一度、ここを訪れることが私にとっての一つの「区切り」、「けじめ」になっている。

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 私自身はこの宗派に属しているわけではないが、この法要はいろんな点で興味深かった。

 はじめに「宗門関係学校生徒作文朗読・表彰式」があり、最優秀賞に選ばれた中学生と高校生各1名が、戦争と平和についての作文を読み上げ、平和の鐘をついた。おごそかな鐘の音がうだるような大気を震わせた。同時刻に全国の宗門の寺がいっせいに鐘を鳴らしたそうだ。

 次は法話で、これがとてもユニークだった。地球の歴史46億年から説き起こし、38億年前の生命誕生、700万年前の人類誕生、ヒトがアフリカから広まるグレートジャーニーをひもときながら、最後は阿弥陀如来の慈悲に着地した。私がやっているコスモロジー・セラピーに重なる内容だった。これについては、いずれ紹介したい。

 感心したのは、戦争協力への強い反省の念を打ち出していたこと。

 「追悼法要の願い」という声明文にはこうある。

《1995年4月15日に本願寺で厳修された「終戦50周年全戦没者総追悼法要」に際してのご親教でご門主は、「宗祖の教えに背き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を、仏祖の御前に慚愧せずにはおれません」と、宗門の戦争にかかる責任を明らかにされ、平和を求める念仏者としての決意を表明されました。

 また、2004年5月24日には、総局が、「戦後問題」に関する「宗令」「宗告」を発布し、宗門をして改めて「宗門における『戦後問題』への対応に関する総局見解」を示しました。その中で「戦時下における宗門は、政治の全体主義化、軍国主義化とともに厳しい法の統制をうけながら、国策としての戦争や国体護持に協力してきました」とし、「このうえは、『世の中安穏なれ』『仏法ひろまれ』との宗祖の遺訓を体し、過去の戦争への反省に立って、戦争のない平和な世界を築いていくため、世界中の人びととの交流と対話をとおして、非戦・平和への取り組みをさらに進めていく所存であります」との決意を表明しました。

 そうした立場から、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で追悼法要を修行することは、日本の侵略戦争に協力した私たちの宗門の過ちを反省し、慚愧の思いをもって、戦争のない世界を築くという願いのもと、平和への誓いを新たにすることに他なりません。》

 明確に「侵略戦争」と言い切り、戦争責任を負うと明言している。いまや「侵略」を「進出」などと言い換えるこの時代にあって、立派である。

 それにしても当時、言論統制や世論が戦争への大きな流れを作っていたとはいえ、仏教者にあって「宗祖の教えに背き、仏法の名において」侵略戦争に協力していったのはなぜか。

 そこには仏教の根本理念のねじ曲げがあった。

 例えば、「無我」を「滅私奉公」と同じものと説き、お国のために、天皇陛下のために死ねと若者を戦地に送り出したのだった。

 なお、日本の宗教界の戦争協力と反省については以下を参照されたい。まだ反省していない宗派も多い。
https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=5631

(つづく)

関東大震災の虐殺100年によせて8

 岸田改造内閣は突っ込みどころ満載。

認証式を終えた副大臣ら。女性はいない(朝日新聞

 5人の女性閣僚を起用しても、副大臣26人と政務官28人の計54人は全て男性議員で女性議員はゼロ。2001年に副大臣政務官が導入されてから「女性ゼロ」は初めてだという。「やってる感」の化粧がすぐにはげるのは岸田内閣の特徴の一つか。

 ところで近年、政府の日本語はおかしい。政策の薄っぺらさを自己愛的な言葉でとりつくろっているのか。

 誰が答弁しても「丁寧な説明」が枕ことばのように発せられ、実際の説明はなし。自分の行為に「丁寧」って言うか。小説家飲んで三浦しをんは「骨太の方針」という言葉にイラっとするという。「『骨太』って自分で言うの。言語感覚がおかしいです」。言葉を大事にする作家が我慢できなくなるのも当然だ。「異次元の少子化対策」も自分をほめあげている。「異次元」ではなく「現実にしっかりした政治をやってほしい。」(三浦氏)

 大賛成!

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 関東大震災の時の朝鮮人虐殺は、権力とメディアの関係を大きく変えることにもなった。

 朝鮮人来襲の流言が事実ではないと気づいた内務省は、9月3日、新聞各社に「朝鮮人に関する記事は」「一切掲載せざるよう」にせよ、さもないと発売禁止にするぞと警告書を発していた。

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 その日、戒厳令東京府、神奈川県全域に拡大され、戒厳司令部は「時勢に妨害ありと認むる新聞、雑誌、広告を停止」するという発禁命令も出した

 しかし、これらの警告、命令は守られず、新聞はそうした記事を載せ続けたため、都新聞が禁止処分に、報知新聞、東京日日新聞などいくつもの新聞が差し押さえ処分を受ける。

 政府は出版物取り締まり強化をはかり、9月7日には治安維持罰則勅令を公布。そこには、社会不安をうながす記事を掲載した新聞、雑誌等の発行人に対して、十年以下の懲役、禁錮、又は三千円以下の罰金に処すことが明記されていた。さらに16日には、新聞、雑誌等の原稿をもれなく検閲する命令が内務省から発せられた。

 吉村昭はこう総括する。

 《地震発生後新聞報道は、たしかに重大な過失をおかした。その朝鮮人来襲に関する記事は、庶民を恐怖におとしいれ、多くの虐殺事件の発生もうながした。その結果、記事原稿の検閲も受けねばならなくなったのだ。

 しかし、それは同時に新聞の最大の存在意義である報道の自由を失うことにもつながった。記事原稿は、治安維持を乱す恐れのあるものを発表禁止にするという条項によって、内務省の手で徹底的な発禁と削除を受けた

 政府機関は、一つの有力な武器をにぎったも同然であった。政府の好ましくないと思われる事実を、記事検閲によって隠蔽することも可能になったのだ。》(前掲書P232-233)

 大震災が、言論の自由報道の自由にとっての一つの転機にもなったというのだ。

 当時、内務省が世人に知られることをおそれる事件があった。亀戸警察署内で社会主義者ら13名が殺害された「亀戸事件」である。

亀戸事件犠牲者の碑(筆者撮影)

墓碑に「権力の蛮行に斃れた」の文字が(筆者撮影)

碑がある亀戸の赤門浄心寺(筆者撮影)

 大地震発生後、内務省社会主義者への監視を強化し、検束する行動にも出た。

 警察庁は、9月5日、官房主事と警務部長名で、社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよとの通牒を出した。さらに11日には官房主事から、社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れがあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよと命令を発している。なお、このときの警察庁官房主事」は正力松太郎。のちの読売新聞社主、日本テレビ社長である

 また関東戒厳司令部でも、社会主義者を十分に監視し警戒するよう命令を出した。

 横浜では大地震の起きた9月1日の午後、社会主義者及び鮮人の放火多し」との流言が流れた。

takase.hatenablog.jp


 ただ、実際には社会主義者の勢力が弱く、庶民の関心が薄かったため、「社会主義者」を理由に自警団に襲われ負傷したのは2名にとどまった。
 「亀戸事件」は、民衆による暴行ではなく、警察の要望で出動した騎兵第十三連隊の将兵が引き起こした権力犯罪である。

 殺されたのは、南葛飾労働組合員の平沢計七、河合義虎ら9名と砂町本町の自警団員4名の計13名。「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」によれば、「処置」は「刺殺」で、「死体は震災死亡者数百名屍体と共に火葬したり」とある。遺族に知らせもせずに火葬処理してしまったのだ。

「兵器ヲ使用セル事件調査表」に記載された亀戸事件。「刺殺」とある。


 大地震の直後から、警察は多くの社会活動家を検束した。その中には、戦後の政界で名を成す浅沼稲次郎麻生久らもいた。民衆に暴行されないよう「保護」するという名目だったが、実態は強制逮捕だった。警察に連行された彼らは裸にされ、激しい暴行を受けたという。亀戸事件もこうした警察と軍の姿勢から必然的に引き起こされた。

 内務省は事件が公になることをおそれ、厳重な箝口令をしいた。隠しきれなくなって事件の内容が発表されたのは、1カ月以上たった10月10日だった。しかも新聞の記事原稿は検閲され一部削除された。メディア統制が効いてきたのだった。

 そして、さらに残虐な権力犯罪、「甘粕事件」(=大杉事件)が起きる。それは、渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長、甘粕(あまかす)正彦憲兵大尉とその部下による社会主義者大杉栄、妻伊藤野枝、甥橘宗一の虐殺事件だった。
(つづく)
 

 

関東大震災の虐殺100年によせて7

 ベトナムから米軍が撤退して50年。しかし、今も地雷や不発弾の処理は先が見えないほど深刻だという。

 米軍はベトナムに500万トン以上の爆弾を投下したその不発弾でこれまでに4万人以上が亡くなっており、今でも年間千人近くが命を落としている。母親が不発弾で脚を失い、アメリカへの恨みを抱えつつ、アメリカが9割を救出するNGOで撤去作業に従事する青年をNHKニュースが取り上げていた。

ベトナム中部クアンチ省は、不発弾の密度が最も高い地域だ(NHKより)

グエン・ドゥック・チエンさん(32)は、若い頃不発弾で脚を失った母と暮らす(NHKより)

 「私たちは早く除去しようとしていますが、終着点がいつ来るかはわかりません」というNGO代表の言葉に、アフガニスタンイラクや現在戦争がつづくウクライナのことを思った。戦闘が終っても、戦争の災禍は何十年も消えないのだ。
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 関東大震災直後、各地で武装した自警団が血眼になって「朝鮮人狩り」を行う狂乱のなか、朝鮮人と疑われたり、自警団の暴行に反発したりした日本人が殺されるケースも少なくなかった。千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)で起きた「福田村事件」も自警団に日本人が襲われたケースだった。

 大震災から5日が過ぎた9月6日のこと、香川から行商に来ていた薬売りの一行が、福田村にある利根川の渡し場にやってきた。事件の発端を、元高校教諭石井雍大さんらの研究成果を基にして2009年の『四国新聞』はこう記す。

《渡し賃の交渉過程で異変が起きた。「言葉が変」「朝鮮人じゃないか」。半鐘が鳴る。生存者の証言によると、駐在所の巡査を先頭に、自警団が「ウンカのごとく」集まったという。

 「どこから来た」。一行は抗弁する。「四国から」「日本人じゃ」。言い訳するほど「聞き慣れぬ言葉」に不審が募る。巡査が本署の指示を仰ぎに場を離れたのが悲劇の始まりだった。(略)「やっちまえ」の怒号とともに惨劇の幕が開く。》」

、「言葉が変」などと怪しまれ、二十歳代の夫婦2組と2歳から6歳までの子ども3人、24歳と18歳の青年の9人(妊婦のお腹にいた胎児を入れて10人とする説も)が惨殺された。

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 薬の行商人一行は被差別部落出身だったが、そのことが理由で殺されたのではない。ただ。一行のうち生きのこった6人は、部落差別を理由に「言っても仕方ない」と泣き寝入りした可能性がある。一方、現場近くの地域では、あまりにもおぞましい事件なので、たとえ知っていても、しゃべってはいけないという空気があって、長く事件はほとんど知られずにきた。

 一部の人により調査がはじまったのは1980年前後。地道で困難な事実の掘り起こしを続けるなか、2000年3月には香川県で「千葉福田村事件真相調査会」が、同年7月には千葉県で「福田村事件を心に刻む会」が設立され、2003年にはこれらの人々が中心になって、野田市円福寺追悼慰霊碑を建立した。ここに集まった人々は事件を検証して語り継ぎ、人権尊重を啓発しながら交流を重ねており、今年の追悼式には香川から被害者遺族なども参加したという。

 今年6月20日には野田市長がはじめて事件に言及し弔意を示している

関東大震災直後に香川県の行商団9人が福田村(現在の野田市)で自警団に虐殺された「福田村事件」から今年で100周年となることに関し、同市の鈴木有市長は20日の市議会一般質問で「被害に遭った人たちに謹んで哀悼の誠をささげたい」と弔意を示した。同市が公式の場で福田村事件の被害者に対して哀悼の意を表したのは初めて》(千葉日報https://www.chibanippo.co.jp/news/national/1073258

 映画『福田村事件』を製作した森達也監督が福田村事件を知ったきっかけは、02年の新聞記事で、事件の追悼慰霊碑建立の動きを読んだことだった。

今年の追悼式(栃木裕さん提供)

 どの映画評でも絶賛されている『福田村事件』だが、「追悼慰霊碑保存会」の人々からは批判の声が上がっているという。6日に野田市で行われた「関東大震災福田村事件100年犠牲者追悼式」での「主催者からのメッセージ」では、碑の建立から20年にわたって事件を語り継いできた努力してきた関係者への感謝を述べた後、以下のようにわざわざ映画に触れている。

 《その長年にわたる積み重ねを「ちっちゃな慰霊碑」、「福田村事件」は「歴史の闇に葬られていた」などと語る映画監督や書き手に対して、私たちは憤りを覚えずにはいられないことを皆様にもお伝えしておきたいと思います》

追悼式主催者からのメッセージ(栃木裕さん提供)

 また、映画制作の過程で、香川の被差別部落の住民側とのあつれきも生じた。埼玉新聞』8月28日の記事は「映画化の動きは地域を翻弄した」と書く。

 2020年冬、森監督が取材のため地域を訪れ、その様子を地元テレビ局が放送。そのため地域が特定され、ある出版社が地域の動画を公開、その影響がすぐに差別になってあらわれたという。

埼玉新聞8月28日の記事(栃木裕さん提供)

 「追悼式」に参加した私の友人の栃木裕さんは、FBで森監督をこう批判している。

 《森達也がこの慰霊碑を「ちっちゃな慰霊碑」と罵倒し、保存会として抗議したが、森は無視を続けている💢 しかも勝手な解釈で映画を作製、公開した。香川では地域が晒されて被害者家族・遺族が大きな不安の中に叩き落とされている‼︎

 私も5日にこの映画を観たがイライラした。

 ハンセン病、三味線弾いたり大道芸人のような派手な口上の辻売り、正信偈(浄土真宗のお経 被差別部落には真宗門徒が多い)の読経、水平社宣言を御守りにして、それを誦じる、、、、、

 取ってつけたような「被差別部落」のステレオタイプの薄っぺらいなイメージがペタペタとランダムに貼り付けられていた。(略)

 さまざまな障壁を超えて20年前に追悼供養墓碑を作った香川県野田市の皆さんの感情を逆撫で、愚弄し、見下す森達也の態度はどんな事があっても許されない。(略)

 森の映画によって「福田村事件」が多くの人に周知されたのではない‼️

 慰霊碑保存会をはじめとした人々の辛苦があって慰霊碑が出来、市川さんらの精力的なフィールドワークによる啓発活動が裾野を広げていった結果として今日がある事を忘れないようにしよう》

 栃木さんはかつて屠場労組の委員長をつとめ、部落差別の問題にも詳しい。一昨年『屠畜のお仕事』を出版している。
https://mainichi.jp/articles/20210803/ddm/012/070/058000c

 かつて森監督が屠畜を取り上げたさい、描き方に異論があり意見を言おうとしたら「検閲だ」と拒否されたことがあったという。その当時から森監督の姿勢は変わっていないと栃木さんは言う。

 ここに紹介したのは私が接した一部の人たちの意見だが、映像作品の制作手法、関係者への向き合い方、テーマの表現方法など、さまざまなことを考えさせられる。

 

 さて、関東大震災で殺された日本人たちは少なくないが、その中には、福田村事件のように狂乱する自警団によって偶発的に殺されたのではなく、狙われた標的として意図的に殺害された人たちがいた。
(つづく)

 

関東大震災の虐殺100年によせて6

 ジャニーズ事務所のタレントを起用した広告を取りやめる企業が相次いでいる

 「タレント自身に非があるとは考えていない」(メニコン)として直ちに契約解除はいないところもあるが、「納得いく説明があるまで新たな契約を結ばない」(サントリーHD)という対応が多数派になっているようだ。

7日の記者会見(abemaTV)

 7日の記者会見で同事務所の新経営陣は今の社名を続けると語ったが、事態の深刻さを認識していないと批判されている。ジャニーズ(Johnny’s)とは「ジャニーの(’s)」事務所という意味。ジャニー氏が歴史に残る大犯罪者と内外で認定されたいま、この名前を残すことはありえないだろう。

 サントリーHDの社長で、経済同友会新浪剛史代表幹事は、同事務所の対応があまりに不十分であると指摘した上で、所属タレントの起用を続けることは「児童虐待を起業として認めることだ」と語る。

 同事務所所属のタレントを起用する場合は、個人とではなく事務所との契約関係にはいることになるので、「人権デューデリジェンス(Due Diligence)」の観点からは当然の対応になる。

takase.hatenablog.jp


 同事務所は13日、今後1年間、広告や番組などに所属タレントが出演した際の出演料を全て本人に支払い、芸能プロダクションとしての報酬を受け取らないと表明した。
https://www.johnny-associates.co.jp/news/info-714/

 タレントや企業をつなぎとめ、批判をかわそうとする狙いだろうが、同事務所の改革や犠牲者への補償がどう具体的に進むかを注視しなければならない。
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 関東大震災における朝鮮人にかんする流言、風説ははじめ横浜から起こった

横浜市中区(wikipediaより)

 これについては後に横浜地方裁判所検事局で徹底した追跡調査が行われ、朝鮮人による放火、強盗、殺人、投毒などの風説は全く根拠のないものだと判明している。ただ、流言のもとになった「タネ」のような事件があった。それは日本人による悪質な犯罪行為だった。

 地震直後、横浜市で大規模で組織だった強盗事件が起きていた。その代表的なものが、右翼の立憲労働党総理を名乗る山口正憲を主謀者とする集団強盗事件だ。

 山口は家が倒壊し、近くの小学校に避難した。避難民たちは絶えず襲ってくる余震と随所に起こる火災に平静さを失っていた。救援物資は届かず、飢えと渇きに対する激しい不安を抱いていた。

 山口は避難民を扇動して物資を調達しようと、「横浜震災救護団」という団体を結成、巧みな弁舌に多数のものが入団を申し出た。物資の調達は「掠奪」を意味した。いくつかの決死隊が編成され、山口は彼らの左腕に赤い布を巻き付けさせ、赤い布を竿にしばりつけさせ、物資の掠奪を指示した。

 彼らは、日本刀、竹槍、鉄棒、銃器などを手に、横浜市内の類焼を免れた商店や外人宅などを襲い、凶器をかざして食糧、酒類、金銭等をおどしとって歩いた。その強奪行動は、9月1日午後4時ごろから4日午後2時ごろまで17回にわたって繰り返された。

 この山口を主謀者とする強盗団の横行は、他の不良分子に影響を与え、横浜市内外は地震と大火に致命的な打撃を受けると同時に強盗団の横行する地にもなった。赤い腕章をつけ、赤旗をかざした男たちの集団が人家を襲い、凶器で庶民を威嚇するのを見た市民たちは恐怖におののいた。

 不穏な空気のなか、「朝鮮人放火す」という風説が本牧町を発生源に流れてきた。だれの口からともなく、焼け跡に跋扈する強盗団が朝鮮人ではないかとの憶測が生まれた。日本人と朝鮮人は顔や体つきでは区別できない。強盗団の行為はすべて朝鮮人によるものとして理解され、朝鮮人の強盗、強姦、殺人、投毒などの流言として膨れ上がった。

 「横浜地方裁判所検事局は、後になって朝鮮人に関する流言の発生が山口正憲一派をはじめとした強盗団の横行と密接な関係のあることをつきとめたが、さらに山口らが朝鮮人と称して掠奪をおこなったのではないかという疑いもいだいた。そして、検挙した山口をはじめ強盗を働いた者たちを個別に鋭く訊問したが、かれらの供述は一致していて、そのようなことを口にした事実は全くなかったことが判明した。つまり朝鮮人に関する流言は、山口らが作り上げたものではなかったが、かれらの犯行が庶民によって朝鮮人のものとして解釈されたのである

 流言はたちまち膨張し、巨大な怪物に成長した。そして、横浜市内から人の口を媒介にすさまじい勢いで疾駆しはじめた。

 関東大震災で最も被害の甚だしかった横浜市の市民は、東京方面に群をなして避難していた。そのためかれらの口から朝鮮人に関する流言が、東京に素早くひろがっていったのである。」(吉村昭関東大震災』P166~169)

 大地震発生直後、各町村では、消防団在郷軍人会、青年団等が火災防止、盗難防止をはじめ被災民の救援事業につとめた。被害を免れた地域では、炊き出しを行い、救護所を設けて避難してくる人々を温かく迎え入れた。ところが朝鮮人に関する流言が広まると、様相は一変した。

 これらの団体は自衛のため、凶器を手に武装し、自警団として次々に組織された。自警団の数は東京で1,145にのぼったという。

 武装した彼らは、昼夜交代で検問所を設け、隊を組んで町内を巡回した。凶器をもった暴徒集団と化した彼らは、手当たり次第に通行人を訊問した。国家を歌わせたり、映画「福田村事件」にあったように、歴代天皇の名前を言わせたり、濁音の入った言葉を発音させたり(朝鮮人は濁音の発声が苦手だから)した。朝鮮人を発見すると暴力を加え縛り上げ、ついには殺害までした。

 日本人も被害者になった。凶器をもった男たちに囲まれ、動転してうまく答えられなかったり、言葉を間違えたり、地方出身者でなまりがあったりすると自警団の疑惑をまねき、日本人でありながら殺害される事件が続発した。

 罪を朝鮮人になすりつけるケースさえあった。

 「9月11日、渋谷区下渋谷に住む平野という男から渋谷署に通報があった。かれの雇人である高橋という男が、凶器を手にした朝鮮人に襲われ殺害されたという。

 警察では、ただちに署員を平野宅に急がせた。

 たしかに家の中では、高橋某が鋭利な刃物で刺され死亡していた。

 署員は、平野から事情を聴取したが、その言葉に曖昧な点が多く追及した結果、高橋を殺害したのは平野であることがあきらかになった。

 平野は、雇人の高橋がかなりの額の金銭を所持していたので、その金銭を奪うために殺害した。そして、流言を利用して犯行をくらますため朝鮮人に殺されたと警察に訴えたのである。」(吉村前掲書P184)

 日本人が殺された事件の一つが「福田村事件だった。ただ、この事件には他とは異なる特殊な事情があった。犠牲者が「部落民」だったのである。
(つづく)

関東大震災の虐殺100年によせて5

 岸田内閣改造での注目は木原誠二官房副長官の処遇だった。

先月の訪米でも岸田首相に同行した木原氏(右)。側近中の側近だ。(毎日新聞より)

 「岸田文雄首相は13日の内閣改造で、最側近の木原誠二官房副長官を交代させる苦渋の決断を下した。 木原氏の妻の元夫が死亡した事案に絡み、警視庁が妻にも事情を聴いていたとの記事で週刊文春が追及を強めており、これ以上続投させれば木原氏の将来を左右しかねないと判断した。 だが、嶋田隆首席首相秘書官とともに首相の政権運営を最前線で支えてきた木原氏が官邸を去る影響は小さくない。」(産経新聞

 木原氏の疑惑は、妻が事情聴取を受け、政治権力をつかってその捜査に圧力をかけたというきわめて重大なもの。これを週刊文春』が「妻」に事情聴取した元警察官の実名証言など十分な根拠をもって追求した。法治国家としての根幹が問われる問題を、テレビ、新聞など他のマスメディアが報じないのは異様だ。

  
 産経は「苦渋の決断」で官房副長官を交代させるというが、「近く自民党幹事長代理に就く見通しで、党総裁である首相を懐刀として支える構図は続きそうだ」と読売。このまま「側近」として岸田政権のかじ取りに加わるようだ。

 マスメディアはどうせ追求しないだろうとあまく見られている。マスメディアが、自主規制でジャニー喜多川の性加害を報じなかったことを反省するのであれば、今からでも遅くないから矜持をもって、木原誠二氏の疑惑を取り上げてほしい。
・・・・・

 関東大震災をきっかけに起きた朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、大杉事件の「三大テロ」事件を、日本近代史のなかでどう位置付けるか。

 戦後、左派の日本人歴史学者三つの事件を「白色テロ」事件として並列的に論じた

 「この朝鮮人虐殺事件をふくむ亀戸事件、大杉事件などの三大テロ事件は『第一次共産党事件』とあいまって、(略)ようやく大衆化しはじめた日朝人民の連帯運動をふくむ日本の革命運動に大きな打撃を与えた」(犬丸義一氏)

 これが戦後の「科学的歴史学」の立場に立つ日本人歴史学者の通説だったという。

 本ブログ前号で紹介した在日の研究者、姜徳相(カントクサン)氏が、これを強く批判した。

 「個々の生命の尊厳に差のあるはずはないし、異をとなえるわけではないが、家族三人(筆者注:大杉事件の犠牲者)の生命、10人の社会主義者(注:亀戸事件の犠牲者)の生命と六千人以上の生命の量の差を均等化することはできない。量の問題は質の問題であり、事件は全く異質のものである。異質のものを無理に同質化し、並列化することは官憲の隠蔽工作に加担したと同じであるといえよう。前二者が官憲による完全な権力犯罪であり、自民族内の階級闘争であるに反し、朝鮮人事件は日本官民一体の犯罪であり、民衆が動員され直接虐殺に加担した民族犯罪であり、国際問題である。

 説得力ある、根本的な問題提起である。

 そこで、「民族犯罪」という観点から、日本民衆がなぜ簡単に「朝鮮人来襲」の流言にのせられたかを見ていこう。

 もう「古典」といえる吉村昭関東大震災文藝春秋1977年)は、流言が刑務所周辺から出た可能性を指摘する

吉村昭関東大震災

 《災害地域には、東京府に小菅、巣鴨、市ヶ谷、豊多摩、横浜市に横浜、その他浦和、千葉、甲府の各刑務所と小田原少年刑務所があって、多数の囚人が在監していた。

 地震と同時に刑務所の建物も倒壊し、囚人の脱獄も可能な状態になった。当然刑務所周辺の住民はそれを知っておびえたが、かれらの口から伝わった話がいつの間にか急激に膨張し、具体性をそなえた大規模な流言に発展した。その流言は種類が多く、

「東京の刑務所の囚人は、一人残らず釈放された」

「市ヶ谷刑務所から解放された囚人は、焼け残った山の手及び郡部に潜入し、夜に入るのを待って放火する計画を立てている」

巣鴨刑務所は倒壊し、囚人が集団脱走し、婦女強姦と掠奪を繰り返している」

 という不穏なものであった。》

《事実、横浜刑務所では、監房その他大半が焼失・倒壊する被害を受けたため、負傷者をのぞく約千人の全囚人が二十四時間の法定時間内に帰ることを条件に釈放された。》

 囚人たちは「かなりの数が帰所し」たが、「中には逃走した者もいて」、逃走者の逮捕に努力したという。

 また、《東京府の各刑務所では、地震発生時に例外なく険悪な空気に包まれた。囚人たちは、烈震とそれにつづく火災発生におびえて、所外に出してくれと騒ぐ。各刑務所での被害は大きく囚人たちの脱走も十分に予想され、所員はその逃亡を防ぐのに腐心した。》

 司法省は陸軍省東京府の四刑務所への軍隊の出動を依頼したが、刑務所内ではさまざまな騒動、騒擾が発生した。豊多摩刑務所では、囚人と看守がもみ合い、「その怒号が所外の住民の耳にも達したらしく、町の所々で半鐘が乱打される音も起り、あたり一帯は騒然となった」。

 巣鴨刑務所では囚人の騒擾を抑えるため発砲までしている。

 《囚人に関する流言は、数日間にわたって各方面に流れていたが、大震災の起った九月一日午後から湧きはじめた一流言は、時間の経過とともに恐るべき規模となって膨張していた。それは、他の多くの流言を押し流すほどの強烈さで、東京、横浜をまたたく間におおいつくすと同時に、日本全国に伝わっていった

 大地震が起ってからわずか三時間ほど経過した頃、すでにその奇怪な流言は他のさまざまな流言にまじって人々の口から口に伝わっていた。それは、

社会主義者朝鮮人と協力して放火している」

 という内容であった。

 その流言は、日本の社会が内蔵していた重要な課題を反映したものであった。》(P156~160)

  この流言はなぜ「他の多くの流言を押し流すほどの強烈さ」で伝わっていったのか。
(つづく)