在日外国人の「お母さん」の偲ぶ会2

takase222011-10-26

2000年だったと思うが、「アジア友好の家」を何度目かに訪ねたとき、木村妙子さんは、「お骨がここにあるのよ」と事務所の一画を示した。
誰も引き取り手のないミャンマー人の遺骨を、とりあえず事務所で預かっていたのだ。
毎日新聞の記事に「(アジア友好の家は)病気や行き倒れた外国人の駆け込み寺になった。木村さんは病気の外国人が訪れて他に方法がないと、自ら治療費を負担して救済にあたった」(10月15日夕刊)とあるが、亡くなった場合は火葬して、遺骨を預かり、誰も引き取ってくれない遺骨は知り合いのお寺などに置いてもらっていた。当時、すでに十数体にもなっていた。
在日外国人の闇の部分とは、これほど深いものだったのかとショックを受けた。
他人名義の旅券を使用する人、さらには国籍さえ変えて日本に入国してくる外国人が、深刻なトラブルを抱える場合、その人の大使館には頼れないことが多い。
木村妙子さんは、病院を入院させる手続きから、故国の家族との連絡、大使館や入管との交渉、最後は荼毘までも面倒をみていたのだ。これは「運動」というものではなく、見るに見かねての「お世話」だったと思う。
在日アジア人に「お母さん」と慕われていたのもよく分かる。
「お母さん」の世話焼きは、1972年の日中国交正常化のときの台湾人留学生にはじまった。日本が中華人民共和国と国交を結ぶことは、台湾と断交することを意味したからである。
さらに75年にはサイゴンが陥落し、留学生や大使館員とその家族など1300人の南ベトナム出身者の身分が宙に浮いた。さらに香港など第三国旅券を入手したベトナム難民もが入国してきた。「お母さん」は彼らの救済に奔走することになった。
先日の偲ぶ会でスライドが上映されたが、その中に印象的な一枚があった。
数人の若いベトナム人男性が、テレビの前に座っている。あるものは頭を抱え、あるものはがっくりと首をたれている。サイゴン陥落のニュースを見ているのだという。
そこに、せっせと食事を配っている「お母さん」が写っている。
きっと「ほらほら、ご飯でも食べて元気出しなさいよ」とでも言いながら給仕したのだろう。
子どもが進学、就活、人間関係、健康などで悩み、しょげているとき、それへの直接的な解決法を示さなくとも「ご飯ちゃんと食べなさい」と元気づけるのが、お母さんというもの。そして、困っているときは、とりあえず、それで慰められるものなのだ。
かつての私は、台湾と断交することに疑問を持たず、サイゴン陥落を「解放」と言って喜んでいた。そんな私の目に、いきなり断交された日本在住の台湾人や、国がなくなった南ベトナム人の存在は、全然入っていなかった。
革命や大きな政治変動に、多少の犠牲はやむをえないとさえ思い、そこで苦しむ一人ひとりの生身の人間が見えていなかったのである。
「お母さん」は全く違っていた。国籍が何であろうと、思想信条がどうであろうと、困っている人には分け隔てなく手を差し伸べたのである。
そもそも人権、人道とは、政治的イデオロギーとは別の次元のものであるはずなのだが、実際はそうなっていない。
人権弾圧だと北朝鮮を非難する人々と、同じ非難をミャンマー政権にする人々が、政治的立場ではっきり分かれる《人権の棲み分け》というダブルスタンダードがまかり通っている。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20071103
「お母さん」の夫、木村吉男さんは偲ぶ会で「人権にイデオロギーを入れるべきではない」という意味のことを言った。
もっと正確にいうと;
「アジア友好の家」が、第15回東京弁護士会「人権賞」をもらったとき、こう思ったという。「人権という言葉は、きれいな言葉だが、イデオロギー的になってはいませんか」と。
それぞれの政治的な立場が、人権という言葉を自分の陣営に取り込んで、「われこそは人権擁護者」という主張をし、相手への攻撃に使う。そんな人々があふれているのを批判したのだろうと思う。
遺影の「お母さん」は、私たち一人ひとりが、困った人にさっと手を差し伸べられるような社会をめざそうと語りかけてくるようだった。
(写真は毎日新聞に載っていた、93年ごろの木村妙子さん)