プーチンは脅し文句がうまい。
先月はこう言った。
(TBS「報道特集」より)
「ロシア国民は真の愛国者と、クズ野郎や裏切り者をきちんと区別できる。クズ野郎や裏切り者は、口に入ってきたハエのように吐き出せばいいんだ!」
大統領のお言葉がこれか・・おお、怖いな。
チェチェン戦争をはじめるとき、「テロリストを便所まで追い詰めて、やっつける!」と机をどんと叩いてすごんだことを思い出す。マッチョぶるのが好きなようだから、今度の戦争も簡単には終わらないのではないか。
一方、アジアでも。
先週の日曜、27日はミャンマーの国軍記念日だった。この日、治安部隊は163人ものデモ参加者を殺害したという。去年の軍事クーデター以来、一日の死傷者がもっとも多かったと報じられている。
軍事パレードがあり、ミンアウンフライン総司令官はこう宣言した。
「我々は、”テロリスト”とその支援者たちとは、今後いかなる交渉もせず、一人残らず壊滅させる」。
こちらもゾッとさせられる。
ウクライナでは国外に避難した人がすでに400万人超。ミャンマーでは住む家を追われ国内外に逃れた人たちが55万人に達したという。
そのミャンマーでは国軍と民主派の戦闘が拡大している。。
平和的な闘いを封じられ、若者たちの一部は武装闘争に身を投じた。今日のTBS「報道特集」では、PDF(国民防衛隊)に参加した若者たちがネットでのインタビューに応じた。最前線の戦闘シーンでは、国軍側の激しい攻撃に苦戦している様子がうかがえた。
(国軍の攻撃が激しくなっており、多くの犠牲者がでている)
(「武器を持つなんて夢にも思わなかった」普通の大学生だった彼(23)は、「次の世代が同じ目に遭わないために、その原因を根こそぎ取り除こうと戦っている」という)
若者の一人は、ウクライナの戦いには共感しつつも、「私たちには支援はないのに、ウクライナには沢山ある、武器の提供まで堂々と」という。
その言葉にハッとさせられた。
ミャンマーの戦いへの支援を緩めないようにしたい。
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前回のブログに書いたように、確実に北朝鮮に拉致されたと私が考えている人を31人とする。この中には日本政府が認定した拉致被害者19人(うち17人が日本人)がいる。
実際には、これ以外にどのくらいの人が拉致されたのか。
判断材料として、まず拉致被害者自身の証言がある。
1)蓮池夫妻、地村夫妻、八重子さん、めぐみさんなどが同時期に滞在した平壌南方の郊外「忠龍里(ちゅんりょんり)」招待所で、80年代中ごろ「2地区」に40代の日本人男性人がいたことを蓮池、地村さんたちが証言している。
一人は背の低い太った労働者で、もう一人はやせて小柄の料理人だったという。二人とも朝鮮語ができないと「招待所のおばさん」は言った。
当時40歳代で小柄な料理人となると、中華料理店のコックをしていた原敕晁さんの可能性が考えられる。もう一人の男性に該当する拉致被害者は分からない。
2)「忠龍里」招待所の引き出しの中に、「久我良子(くがよしこ)」という名の手紙が遺されていた。地村夫妻の証言である。
招待所の「おばさん」によると、以前その家にいた女性で、そこを出たあと韓国の漁民と結婚したという。
手紙は、誰かに読んでほしいと書きのこしたと推測できるが、そこには、自分は「50代で、70年代に革命のために佐渡から来た」こと、佐渡で勤めていた工場の名前(地村さんの記憶によるとカタカナで3文字だった)などが書かれていたという。
曽我ひとみさんの母、ミヨシさんと発音が似ており(ソガミヨシとクガヨシコ)、佐渡出身であること、工場に勤めていた経歴などの共通点があるが、どうだろうか。
3)田口八重子さんが、共同生活を送った金賢姫や地村(当時は浜本)富貴恵さんに語ったことによると―
八重子さんは金正日の誕生祝賀会に参列したことがあるが、大勢の参列者の中には日本人夫婦もいたと語った。(金賢姫『忘れられない女』文庫版P218)
蓮池夫妻、地村夫妻からはそうした祝賀会の話は出ていないので、彼らとは別の夫婦だったことになる。
カップルで鹿児島から拉致された市川修一、増元るみ子さんの可能性はどうか。
北朝鮮の説明では、二人は1979年7月20日(はじめ4月20日としたが、後に「誤記」だったと訂正)に結婚し、修一さんは直後の同年9月4日に心臓麻痺で急死。るみ子さんも81年8月17日に心臓麻痺で急死し、二人の遺骨は墓が流されて見つからないという。
しかし、蓮池祐木子さんは79年秋までるみ子さんと同じ招待所で暮らしており、そのときはまだ結婚していなかった。つまり、少なくとも北朝鮮からの説明(79年7月結婚)は実際とは違っており、二人が結婚したかどうかも不明で、八重子さんが祝賀会で見た「日本人夫婦」は謎のままである。
4)やはり八重子さんが語ったところによると、八重子さんが79∼81年に円興里招待所にいたころ、若い二人連れの日本人男性とばったり会って、言葉を交わした。
二人は八重子さんに、「いいところがあると言われて来たら、こんなところだった」と語ったという。
二人の若い男性となると、80年6月に、「よど号」犯の妻、森順子、黒田佐喜子が関与して拉致された石岡亨さん、松木薫さんの可能性がある。
(1984年4月、スペイン・バルセロナ動物園でのスナップ。右から石岡亨さん、森順子、黒田佐喜子)
5)八重子さんから金賢姫、富貴恵さんがともに聞いている話として―
八重子さんは北朝鮮で「見合い」をさせられた。場所は大聖山(テソンサン)の遊園地の食堂だった。相手は「40代くらいの日本人の男性」で、「背が小さかった」という。(同P116)
1)の忠流里新田二人の男性のどちらかの可能性があるが、これ以上の情報はない。
6)次に、脱北者の証言である。
北朝鮮で日本人行方不明者に「似た人」を見た、という脱北者の証言は少なくない。そして、その中には真偽不明なものが含まれているので、扱いに注意する必要がある。
私自身、元工作機関にいたという複数の脱北者から、信憑性のありそうな興味深い話をいくつも聞いている。
そのなかから、まだ知られていない拉致事件と思われるケースを一つだけ挙げると―
横田めぐみさんらしい日本女性を北朝鮮で見たと証言した安明進(アンミョンジン)が語った、北海道から拉致されたとされる一人の男性だ。30歳代前半くらいで、身長は約160cm、おでこが出っ張っており、前頭部が少し剥げ上がっていた。
安明進は、工作員養成所である「金正日政治軍事大学」で何度か見かけた。学生同士のサッカーの試合があったとき。頭に鉢巻をしめて懸命に応援していた彼に話かけると、たどたどしい朝鮮語で答えたという。
(安明進が絵描きに特徴を描写しながら書かせた似顔絵)
安明進が先輩に聞いたところ、拉致された経緯を教えてくれたという。
時期は70年代の末か80年代はじめ。北海道に潜入した工作員が待ち受けている場所に、彼は電器製品をバイクで配達しにきた。
バイクを降りると、彼は工作員の方に近づき、領収書を見せた。その紙には「この男が拉致すべき対象である」旨の隠語が書いてあったので、工作員はただちに彼を拉致し、乗ってきたバイクを地面に埋めた。
拉致を実行したのは、日本を担当する清津(チョンジン)連絡所の工作員だった。
(つづく)