田口八重子さん拉致事件の謎2

 東北は雪が続いているようだ。一人暮らしの高齢者などは足=移動手段で困っているのではないか。

 去年秋、何度か帰省して、公共交通機関の便数が少ないことが気になった。実家の前に県道が通っているのだが、バスは日に3~4本、病院と病院を結ぶものだけになっていた。

 去年の12月3日の「天声人語」にうちの田舎、山形県南陽市の「足」が取り上げられていた。

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12月3日の「天声人語

 沖郷地区に住民専用タクシー「おきタク」というのがあるという。高齢者に運転免許の返納を促すなら代わりの足がほしいという声で始まったそうだ。97年にコミュニティバスが廃止されてからずっと公共交通の空白域だった。おきタクは60歳以上の住民が対象で、料金は一律500円、行先は病院やスーパーなど54か所に限る。メーター料金との差額分は、市の補助と各世帯の拠出金でまかなう。

 いま日本の全人口の2割が公共交通の空白域に住むという。高齢化がますます進む中、「足」の確保は喫緊の課題だ。
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 田口八重子さんについて、北朝鮮は2002年、以下のように日本側に報告してきた。
(日本政府の拉致問題に関するホームページより)
https://www.rachi.go.jp/jp/archives/2002/1002tyousa/kobetujoho.html

朝鮮名:コ・ヘオク 女 1955年8月10日生 当時23~24歳

本籍:埼玉県川口市/出生地:埼玉県/住所:東京都豊島区/日本在住時の職業:飲食店勤務

入国経緯:工作員が身分盗用に利用する対象者を物色中、1978年6月29日宮崎県宮崎市青島海岸で本人が共和国に3日程度なら観光がてら行きたいという意向を示したことから、特殊工作員が身分を偽装するのに利用するため連れてきた。辛光洙は関係がない。

入国後:1978年6月から1984年10月まで招待所で朝鮮語の習得、現実研究および現実体験をした。1984年10月19日、原敕晁さんと結婚。1986年まで家庭生活。

死亡経緯:夫の死亡(1986年7月19日)後、精神的衝撃を受けていたが、数日して安定して帰宅する途中、1986年7月30日、ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡のマシク嶺峠で乗用車とトラックの衝突事故で死亡。この事故で、同人及び運転手を含む3名が乗用車で死亡、トラックの2人は重傷を負った。

遺骸:ファンヘ(黄海)北道リンサン(麟山)郡に墓があったが、1995年7月の豪雨でサンウォルリ(上月里)の貯水池ダムの堤防が壊れ、墓が流された。

遺品:なし

原敕晁さんと結婚するも、子供なし。原さんもリンサン(麟山)郡で病気で死亡。
事故での死亡者と生存者に関する書類が存在するが、今後、法的仕組みが出来た時点で証言と文書を提供することができる。

(注)なお、李恩恵事件につき、北朝鮮側は、調査の結果、李恩恵なる日本人女性はいない旨発言。
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 この北朝鮮の説明は支離滅裂で、とても事実とは認められない。

 最大の矛盾は、北朝鮮田口八重子さんの拉致を認める一方で、李恩恵なる日本人女性はいない」と言っていることだ。

 そもそも「李恩恵(リウネ)」という日本人女性がいたという金賢姫の証言ではじめて、八重子さんの拉致が分かったのである。

 しかし、北朝鮮としては、大韓航空機爆破をやっていない➡金賢姫などという人間は韓国が作り出した架空の人物だ➡「李恩恵」なる人間はいないという理屈なので、こういうむちゃくちゃな言い訳をせざるをえない。

 大韓航空機爆破を認めない北朝鮮が、田口八重子さんの拉致を認めたこと自体、私には大きな驚きだった。私はこれは北朝鮮当局の「失策」だったと思っている。

 より具体的に、帰国した拉致被害者地村富貴恵さんの証言と照らし合わせよう。

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地村さん夫妻。保志さんと富貴恵さん

 富貴恵さんは北朝鮮で八重子さんと二人で暮らしたこともあり、もっともよく八重子さんの事情を知っている。

 富貴恵さんは、飯塚繁雄さんに八重子さんについて書いた手紙を出しており、その内容が平成25年(2013年)1月、「救う会」の「田口八重子さんを救うぞ!」東京連続集会で紹介された。

 その中から引用すると―

「八重ちゃんと一緒に生活した期間は、1978年(昭和53年)9月から1979年11月
25日までです。
 近くの招待所に来て会ったのは1984年10月初めから1986年7月初めです。」

 富貴恵さんは、地村保志さんとデート中に拉致されたが、北朝鮮では保志さんと引き離され、八重子さんと二人で1年以上生活させられたという。そして、保志さんと結婚したあと、84年10月初めから86年7月初めまで、八重子さんとは同じ地区の招待所にいた。

 これは私たちが航空写真で突き止めた「忠龍里(チュンリョンリ)」地区のことだろう。

takase.hatenablog.jp


 この時、八重子さんは結婚していなかったと富貴恵さんは証言する。
 したがって、北朝鮮のいう「1984年10月19日、原敕晁さんと結婚。1986年まで家庭生活」は事実ではない

 二人で暮らしたとき、(八重子さんの)「名前は指導員がコへオク(高恵玉)と付けたので、「へオギ」と呼んでいました」と富貴恵さんは言う。北朝鮮側が報告してきた八重子さんの朝鮮名がこれである。

 「李恩恵」とは、エリート工作員金賢姫の教育係という極秘の特命を受けた期間にかぎって八重子さんが与えられた名前で、その間、金賢姫自身もやはり特命期間限定の「金玉花(キム・オッカ)」を名乗り、互いに「ケイ(恩恵)ちゃん」「タマ(玉花)ちゃん」と呼びあったと金賢姫は証言している。そして、八重子さんの朝鮮名がコヘオクであることは金賢姫も知っていたという。

 北朝鮮は、「コヘオクはいたが、リウネはいない」と言わざるを得ないのである。
(つづく)