北朝鮮は何人を拉致したのか?

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 きょうは晴れて、国立駅前の満開の桜に酔った。

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 ウクライナとロシアの代表団による対面形式の停戦交渉が、トルコのイスタンブールで29日、行われたウクライナの譲歩した案は理性的なものだったと思うが、プーチンはどう答えるか。全然楽観できない。

 一方、昨年のノーベル平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ氏が編集長をつとめるロシアの独立系紙「ノーバヤ・ガゼータ」が28日、政府から2度目の警告を受けたとして、「軍事作戦」終了まで、新聞発行と電子版での紙面掲載を中断すると発表した。

 これ以上報道を続けると、記者が身の危険にさらされる。苦渋の決断だと思うが、ロシアの言論弾圧ソ連時代に匹敵するレベルになった。戦争を長引かせることになる。心が痛む。

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 「田口八重子さん拉致事件の謎」を連載していたら、「オタクな話で、ついていけない!」とのクレームが入った。出てくる人名も「聞いたことのない人ばかり」との声も。

 若い人の中には、拉致問題自体をほとんど知らない人も多いようで、このさい一度、全体像を描いてみようと思う。

 そもそも北朝鮮は何人くらい日本人を拉致してきたのか。

 私が、確実に拉致されている、とみなす人たちは次のとおり。太字は日本政府が認めている拉致被害者だ。

1963 寺越武志と二人の叔父の昭二、外雄
  (1987年、武志と外雄の生存が確認され石川県の家族と北朝鮮で再会)

1974 高敬美(当時6歳)、高剛(当時3歳)
  (日本政府は拉致と断定するも「日本人拉致被害者」に入れていない)
   なお、母親の渡辺秀子は殺害された可能性が高い

1976~77 黒田佐喜子/魚本民子/福留貴美子/森順子/八尾恵/金子恵美子/水谷協子
   (彼女らは「よど号」犯の妻になった)

1977 久米裕(石川県)
   松本京子鳥取県
   横田めぐみ新潟県

1978 田口八重子(九州)
   地村保志、浜本富貴恵福井県
   蓮池薫、奥土祐木子新潟県
   市川修一、増元るみ子(鹿児島県)
   曽我ひとみ、母親のミヨシ新潟県佐渡
   田中実、翌年に金田龍光(欧州)

1980 原敕晁(宮崎県)
   石岡亨、松木(スペイン)
   小住健蔵(西新井事件)

1983 有本恵子(英国、デンマーク

 ここまでで31人(渡辺秀子を除いて)。この人数からどのくらい増えるのか、である。

 以上のそれぞれの事件の、より詳しい事実関係を知りたい人は、太字の拉致被害者については外務省の拉致問題関連サイトを参照してください。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/abd/rachi.html

 その他の人たちについては、それぞれの名前でネット検索すれば情報が出てきます。

 寺越事件については、以下を参照。

takase.hatenablog.jp

 まずここで、「日本人拉致」をどう定義するかという問題がある。

 いま政府認定の拉致被害者は17人。1974年の高敬美(当時6歳)、高剛(当時3歳)は日本政府が拉致だと断定しているが、国籍が日本でないとして「日本人拉致被害者」には入れていない。

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(高敬美ちゃん)

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(高剛ちゃん)

 しかし、母親の渡辺秀子は日本人でもあり、日本の主権が侵された事案であることには変わりない。「日本から拉致された被害者」ということでここに加える。

 日本の警察は;《高姉弟拉致の主犯である北朝鮮工作員・洪寿恵(ホンスヘ)こと木下陽子について、逮捕状の発付を得て国際手配を行うとともに、外務省を通じて、北朝鮮に対し、身柄の引き渡しを要求しています。》としている。https://www.npa.go.jp/keibi/gaiji1/abd_j/fukui_2.html

 この事件については、有田芳生議員が国会で質問している。
https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/syuh/s193006.htm

 在日韓国・朝鮮人で、北朝鮮に行った後、理由が分からぬまま戻ってこない人たちがいることを故・李英和(リヨンファ)さん(関西大学教授)から聞き、日本から拉致されたのは、日本国籍者だけではないことを知った。

 この問題はまた特殊な背景があり、別に取り上げることにして、ここでは扱わない。

 次に何を「拉致」と定義するのか、である。

 というのは、「よど号」犯の妻たちを拉致被害者として扱うことに疑問を持つ人もいるからだ。

 1971年に日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った赤軍派の9人の一人、小西隆裕の恋人だった福井タカ子が1975年に平壌に行って小西と「結婚」した。福井タカ子は、小西と一緒になりたいと自ら望んで北朝鮮に渡っている。

 しかし、福井タカ子以外の、ここに挙げた7人は、甘言をもって北朝鮮まで誘い出され、帰国できない状態に置かれた上で、結婚を強制されている。

 その一人、八尾恵のケースはこうだ。

 彼女は兵庫県出身で、チュチェ(主体)思想研究会で活動していたが、ある在日朝鮮人から「3カ月ほど北朝鮮へ短期留学しないか」と誘われた。

 親には言うなといわれ内緒にしたまま、少しの着替えだけをもって伊丹空港から出国。香港、マカオ、北京を経由して北朝鮮に入ったのは77年3月初めだった。マカオで会った二人の北朝鮮の男に日本旅券を預け、北朝鮮の旅券で平壌に向かった。

 入国後は、平壌郊外の招待所で思想教育を受けたり革命映画を観たりした後、4月下旬に「よど号」犯の一人と見合いをさせられた。自分で国外に出られず、事実上の幽閉状態にあった彼女は、結婚を断ることができなかったという。

 八尾恵は、チュチェ思想研究会で活動し、北朝鮮へのあこがれは持っていたが、まさかそのまま帰国できずに結婚を強制されるとは思っていなかった。

「結婚する相手は柴田(泰弘)で、5月4日に無理やり結婚させられました。私の式の次の日、5月5日に、水谷(協子)さんと田中(義一)が式を挙げました。

 それまでにすでに、全員が式を挙げていたと田宮や労働党の人、柴田などから聞きました。
 5月3日には、金子(恵美子)さんと赤木(志郎)が結婚式を挙げたと聞きました」(八尾)

 5月1日から5日までの5日間で、なんと4組の結婚式が行われたことになる。

 なぜ、こんな結婚ラッシュになったのか。

 それは、これが「主席」の指示にもとづく「作戦」だったからだ八尾恵は彼女らの結婚の2年前に出された「教示」について語っている。

「1975年5月6日に、金日成主席が『日本革命をするには代を継いで行わなければならない』という教示を与え、「よど号」グループに結婚するように指示したためだと、後で田宮や他のメンバー、労働党の人から聞きました」

(以上、拙稿「『よど号乗っ取り犯』は拉致に加担していた!」『北朝鮮「対日潜入工作」』宝島社より引用)

 北朝鮮では当時の金日成の教示は絶対に実現されなければならず、その期限が2年後の77年5月6日だったのだ。急いで日本から女性たちを誘い出し、無理やり結婚させることでぎりぎり間に合わせたわけである。

 これを「拉致」といわずして何といえばいいのか。

 そして、彼女ら「よど号」犯の妻たちは、こんどは自ら日本人を拉致する任務を与えられる。

takase.hatenablog.jp

 拉致被害者が、拉致の実行犯になっていくのだ。
(つづく)