1983年、英国留学を終えた有本恵子さん(当時23歳)だが、予定した8月9日の帰国便には乗っていなかった。
「市場調査の仕事をしている」という手紙が一度来たきりで恵子さんは消息を絶ち、両親(明弘さんと嘉代子さん)はじめ家族の心配は募った。外務省や警察にも問い合わせたが何の情報もないまま、時間が過ぎていった。
家族は恵子さんの名前を口にすることが少なくなっていった。口にしてもつらいだけだったから。
「死んだと思おうとしましたが、思い切れませんでした」と嘉代子さんは当時を振り返っていた。
1988年9月6日朝10時、神戸の有本家の電話が鳴った。ちょうど洗濯を終えた嘉代子さんが受話器を取ると「有本恵子さんは、お宅ですか」と女性の声。
恵子さんがいなくなって5年、その娘の名前を突然聞かされ、嘉代子さんはすぐには言葉が出なかった。
「おたくのお嬢さんは、息子と一緒に北朝鮮の平壌にいうみたいなんです」
電話は札幌からで、その女性の息子、石岡亨という人も欧州で失踪したというではないか。
生きていた!と喜びがこみあげた。
石岡亨さん(当時22歳)は、日大農獣医学部を卒業直後の1980年3月、パンとチーズ作りの本場を見たいと、新潟からハバロフスクに飛び、シベリア鉄道で欧州に向かった。音信が途絶えたのは出国後2ヵ月ほどたったころだった。その息子から8年ぶりに手紙が届いたという。
「家族の皆様方、無事に居られるでしょうか。長い間心配を掛けて済みません。私と松木薫さん(京都外大大学院生)は元気です。途中で合流した有本恵子君(神戸市出身)供々、三人で助け合って平壌市で暮らして居ります。事情あって、欧州に居た私達は、こうして北朝鮮にて長期滞在することになりました。基本的に自括(ママ)の生活ですが当国の保護下、生活費も僅かながら月々支給を受けて居ます。
但し、苦しい経済事情の当地では、長期の生活は苦しいと言はざるを得ません。特に衣服面と教育、教養面での本が極端に少く、三人供に困って居ります。取り敢へず、最低、我々の生存の無事を伝へたく、この手紙をかの国の人に託した次第です。とに角、三人、元気で暮らして居りますので御安心して下さる様御願い至します。・・」
筆跡も、旧仮名遣いを好んで使う癖も石岡さんのものだった。
封筒の裏には石岡亨さんの名前と「平壌にて」という文字がある。本人たちであることを証明するかのように、石岡さんと恵子さんの写真、旅行保険証書が同封されていた。また、なぜか赤ちゃんの写真も添えられていた。
手紙の最後には松木薫さんと恵子さんの実家の住所を記し、連絡するよう家族に依頼している。
手紙に登場する松木薫さんは、スペイン語を勉強するために留学中だった熊本出身の男性(当時26歳)で、やはり1980年に行方不明になっていた。
この石岡亨さんの手紙によって、欧州で失踪した3人の日本の若者が北朝鮮にいることが判明したのである。
切手と消印から、手紙はポーランドで投函されたことが分かった。「この手紙をかの国の人に託した・・・」と書かれている。手紙すら自由に出せない境遇にあるらしい。
彼らはなぜ北朝鮮にいるのか。
その謎を解く一枚の写真がある。
この写真は1980年4月中旬、スペインのバルセロナ動物園で撮影されたものだ。撮ったのは、石岡さんとバイト先で知り合い、一緒に欧州に向かったNさんという友人。スペインまで同行し、そこで別れたという。
この写真は94年3月31日号の「週刊文春」の「日本人留学生失踪事件 平壌に連行したのは「よど号」の妻たちだった」という記事に載った。
ベンチで微笑む石岡さんの隣に二人の女性が写っている。この二人はいったい誰なのか。
この写真が撮られて1か月半後の6月3日、石岡さんは日本の友人にハガキを出している。ウィーンからだった。
「拝啓、国を出て、早や、2 months経過しています。現在オーストリアのウィーンに滞在中ですが、(略)スペインのマドリッドで知り合った人達と共に四人で共産圏を旅して来ます。スペインには七月に戻る予定です」。
四人とは、石岡さん、松木さんとあの写真に写る二人の女性たちのことだ。二人の正体は「よど号」ハイジャック犯、田宮高麿の妻、森順子(よりこ)と、同じく若林盛亨(もりあき)の妻、黒田佐喜子であることが判明する。
1970年にハイジャックした日航機「よど号」で北朝鮮に亡命した9人の赤軍派活動家の動静はその後断片的にしか伝えられてこなかったが、1992年になって、「よど号」犯のほとんどが日本人女性と結婚し子どもももうけていた事実があきらかになった。
ここにきて、「よど号」犯とその妻たちが、日本人拉致に関与したという新たな疑惑が浮上したのである。
(つづく)