金賢姫(キムヒョンヒ)が、田口八重子さんと同居しながら日本人化教育を受けたのは1981年7月から1983年3月までの1年8か月だった。
この時のことについては、金賢姫の『忘れられない女(ひと)~李恩恵先生との20カ月』(文藝春秋)に詳しい。
https://takase.hatenablog.jp/entries/2014/11/29
これから書くことは、事情通には既知のことが多いだろうが、今や大韓航空機事件すら知らない読者もいると思うので、前回と重なるが、八重子さん拉致の関連情報としておさえておきたい。
金賢姫は李恩恵(リウネ)先生こと八重子さんに、日本人に成りすます要員としての訓練を受けた。
「完全に日本人になるためには、日本に関するすべてをできるだけ多く知らねばならない。日本人の食生活と居住環境、お客さまと接するときのエチケット、食事の作法と料理の知識、鉄道、自動車など交通機関の利用方法、日本の伝統的な祝日とおもなお祭り、ホテル、病院などの利用方法、主婦の日常生活、各地の特色と暮らしぶり、日本社会の秩序と東京の環境などは、欠かすことのできない項目だった」(『忘れられない女』文庫版P78-79)
エチケットについては例えば「座布団を出されたら、一度にがばっと座るのではなく、両膝で一度ひざまずいて座布団を引き寄せ、半分ぐらいのところに一度座り、そうしてから完全に座布団の上に座る」などと教わった。(P54」
「演歌をしょっちゅう聴かされたし、日本の歌謡曲も覚えた。おもに加藤登紀子、石川さゆり、島倉千代子の歌と日本の童謡をたくさん教わった」(P80)
二人は24時間いっしょに暮らしたので姉妹のように仲良くなり、八重子さんも見違えるように明るくなったと、以前の八重子さんを知る食事係のおばさんが言ったという。
ちなみに金賢姫が、日本人拉致についてどう考えていたかというと―
「その当時の私は、朝鮮半島の分断には日本にも大きな責任があるので、わが国の統一のための革命事業に日本も参加しなければならないと考えていた。私は日本がどれほど豊かで自由な社会かを知らなかったので、日本のような資本主義社会で苦労して暮らすより、北朝鮮の招待所でぜいたくに、党の配慮を受けて生きていけるのは恩恵先生にとってもよかったと考え、また北朝鮮に拉致されたことについても、先生個人についてはどうかわからないが、分断の責任は日本人にあるのだから、朝鮮半島の統一のための革命事業にはそれぐらいの代価や犠牲はしかたがない、とも信じていた。
そして一つはっきりしているのは、祖国が李恩恵先生を拉致してきたのではなく、統一のための栄光ある革命事業の遂行に彼女が選ばれたのだと考えていた。」(文庫版P48-49)
父親が大使館員だったので子ども時代をキューバで過ごし、普通よりは外の世界の事情に通じているはずの金賢姫にしてこういう認識である。この本で金賢姫は、当時の李恩恵先生こと八重子さんの哀しみを理解することができなかったことを悔いている。
金賢姫と別れた八重子さんは、その後平壌の南方郊外にある中和郡の「忠龍里(チュンリョンリ)」という場所に移され、そこで他の日本人拉致被害者たち5人と住むことになる。
私たちがその特別地区とそれぞれの家(招待所)を衛星写真で特定したのは2006年はじめだった。
これは飯塚繁雄さんが特別に私に見せてくれた蓮池薫さんのメモから大体の位置を推測し、当時は高価だった衛星写真をアメリカの会社から取り寄せ、画像を拡大して探した末に発見できた。4月に日テレの「バンキシャ!」(特集「めぐみさんはここにいた!」)と「今日の出来事」で放送し、『週刊文春』にも寄稿した
日本人拉致被害者がかたまって暮らした「村」を、その位置も含めて初めて特定することに成功したのだった。
この特別地区は西側の1地区と東側の2地区に分かれており、拉致被害者でもっとも早くここに入ったのは地村さん夫妻で79年のこと。80年に蓮池さん夫妻が、84年から八重子さんとめぐみさんが合流して6人が1地区で暮らし始めた。
ぶどうの房のように道路が枝分かれし、それぞれの道路の突き当りに招待所が1軒づつ孤立する特殊な配置で、お互いに行き来することは禁じられていたが、夜、示し合わせてこっそり合っていたそうだ。
このうちの3号招待所には、八重子さん、めぐみさん、金淑姫(キムスッキ)という女性工作員が同居していた。キムスッキはその後いなくなり、八重子さんとめぐみさんが二人で暮らした。
キムスッキとは金賢姫のライバルだった女性工作員で、その日本人化の教育係がめぐみさんだった。金賢姫が労働党に、キムスッキが人民軍に所属する、ともに選りすぐりの女性工作員で、最終的に大韓航空機爆破の任務を与えられたのは二人のうち金賢姫の方だった。金賢姫は金正日の「親筆」指示(直接に署名した指示)を受け、「蜂谷真由美」なる日本女性に扮して飛行機の乗客となり、爆破の犯行に及んだ。
蓮池さんによると、85年末、日本人の全員が1地区から2地区に移され、2地区3号招待所に八重子さんとめぐみさんが入ったという。
前回紹介した地村富貴恵さんの飯塚繁雄さんへの手紙には、「1986年7月の初め、八重ちゃんが私達の招待所に来て、「違う招待所に行くかもしれない。そこに行ったらもう会えないかもしれない」と言っていました」とあり、その後は会えなかったという。
忠龍里で一緒にいたときは、八重子さんは、地村夫妻、蓮池夫妻、横田めぐみさんなどとともに労働党調査部の管轄下にあったが、「違う招待所」に移って以降は、さまざまな情報を総合すると、人民武力部(軍)の対南工作部門の管轄下に入ったと思われる。
なお、当時5号招待所には韓国人拉致被害者の男性がいたが、彼がめぐみさんと結婚することになる金英男(キムヨンナム)氏だった。
私たちの北朝鮮関連のスクープとしては、偽ドル「スーパーK」事件の追跡(1996年4月)、北朝鮮での横田めぐみさん目撃証言(97年2月)、寺越武志さん拉致事件の検証(97年5月)、レバノン女性4人の拉致事件の解明(98年4月)、辛光洙(シングァンス)工作員の軌跡の検証(00年5月)、金賢姫が北朝鮮出身であることの証明(子ども時代の写真の発見)(04年3月)などがあるが、この「忠龍里」の特定は、それらとならぶ大きな意味のあるスクープだったと思う。
以上の情報から、86年7月まで八重子さんは「忠龍里」でめぐみさんと同居していたわけで、北朝鮮の「1984年10月19日、原敕晁さんと結婚。1986年まで家庭生活」との八重子さんに関する情報は明らかに虚偽である。
私たちが報じた情報は、3年後の09年、飯塚繁雄さんと耕一郎さんが金賢姫と面会したさいに確認された。
《面会した田口さんの長男飯塚耕一郎さん(32)らによると、金元死刑囚は「田口さんと横田さん、(同僚工作員の)金淑姫(キム・スッキ)の3人は84年末、平壌市内から遠く離れた招待所で一緒に暮らしていた」と証言した。金元死刑囚は85年1月に「金淑姫」と会った際、その話を聞いたという。
「金淑姫」は同居した招待所について「電気事情が悪く寒いので、服を何枚も重ね着していた」と話したという。
金元死刑囚の手記によると、田口さんは81年7月から金元死刑囚の日本語教育係を務め、83年3月に別れた。その後について、帰国した拉致被害者地村富貴恵さん(53)が「84年秋、平壌の南東約20キロにある忠竜里という場所で田口さんと再会した」と証言。田口さんが横田さんらと同居したのはこの直後とみられる。
金元死刑囚が今回証言した招待所は忠竜里とみられる。ここには幾つかの住居があり、帰国した地村さん、蓮池薫さん(51)の両夫妻が生活していたことが分かっている。日本の拉致被害者が近くに集められ、その中で助け合いながら生活していた可能性がある。
金元死刑囚は「金淑姫」について、手記の中で同時期に訓練を受けた同世代の女工作員と紹介。金元死刑囚は面会後の会見で、「横田さんは金淑姫に日本語を教えていた」と証言した。富貴恵さんは「横田さんはスッキという人に日本語を教えていた」と証言しており、「スッキ」が淑姫とすれば一致する。田口さんが金元死刑囚に、横田さんがもう1人の工作員に日本語を教えていたことになる。》(朝日新聞http://www.asahi.com/special/08001/TKY200904060252.html)
(つづく)