ひまわりを案じてやまぬ桜かな (神奈川県 延沢好子)
きょうの「朝日川柳」だ。
ウクライナではロシアによる化学兵器、生物兵器、さらには核兵器の使用が真剣に懸念されている。
(近所の春)
春爛漫の日本からウクライナに安寧の日々が戻ることを祈る。
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先日の春分の日は昼と夜の長さが同じで、これから次第に昼が長くなる。
ペルシャ人(イラン)やクルド人はこの日、新年を祝う。しかし、在日クルド人たちは、今年もコロナ禍でみなで集ってのお祝いイベントは中止したという。
20日から初候「雀始巣(すずめ、はじめてすくう)」、25日から次候「桜始開(さくら、はじめてひらく)」。30日から末候「雷乃発声(かみなり、すなわちこえをはっす)」。
ここ数日、花冷えで足踏みしていた桜の開花だが、東京ではそろそろ満開の時期を迎える。ウドが八百屋に並んでいる。酢味噌で食べたい。
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25年前のきょう「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)が結成された。
あれから四半世紀たったのか。
未帰国の被害者の親世代で存命なのはめぐみさんの母早紀江さん(86)と、有本恵子さん=失踪当時(23)=の父明弘さん(94)の2人だけだ。
昨年3代目の代表となった横田拓也さん(53)は「元気なうちに家族と抱き合えるよう、政府は具体的な行動をしてほしい」と早期解決を訴えている。(新潟日報より)
その一方で、北朝鮮はついに新型ICBMの発射実験をして、全米を射程に入れたもようだ。
先日、国連のあり方について触れたが、根本的な国連改革が必要だ。常任理事国が理由のない勝手な戦争をしてもおとがめなしなのだから、北朝鮮の核ミサイル開発など止められるわけがない。
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金賢姫情報では東海岸(日本海側)の「清津(ちょんじん)」に着いたことになり、北朝鮮側の説明では宮崎市の青島海岸から北朝鮮西海岸(黄海側)の「海州(ヘジュ)」に至った、また地村富貴恵さん情報ではやはり西海岸の「南浦(ナンポ)」に到着したとなる。
当時、北朝鮮工作船の運航は労働党作戦部という工作機関が行っており、工作船基地(連絡所)は4カ所あった。東海岸の清津と元山(ウォンサン)、西海岸の南浦と海州である。
このうち、清津は日本への浸透を専門とし、元山と南浦は日本と韓国の両方を担当、海州はもっぱら韓国を受け持っていた。
(北朝鮮工作船で工作員が「浸透」した場所。拙著『拉致』講談社文庫より。この後、ジャーナリスト恵谷治さんがより詳しい地図を作製した)
日本海側にやってくる工作船の基地は清津または元山であり、この航路を私は「日本海コース」と呼んでいる。
新潟県柏崎市の海岸から拉致された蓮池さん夫妻、福井県小浜市から拉致された地村さん夫妻は、いずれも海岸近くで複数の男たちに襲われ、工作船で清津に連れていかれたと証言している。
1999年の「能登沖不審船」が、海上自衛隊の追跡を振り切って逃げた先は清津だったし、能登の海で消えた石川県の寺越武志さんも清津港に着いたと語っている。
(寺越武志さんの事件については以下)
元山からの日本海コースの浸透で判明している例としては、横田めぐみさんや原敕晁さんを拉致したとされる北朝鮮工作員、辛光洙(シングァンス)が初めて日本に潜入したときがある。
辛光洙は、1973年7月2日に元山港を出発して石川県の能登半島に上陸し、その後76年8月に富山県滑川市の海岸から元山港に戻っている。
(拙稿「大物工作員が明かした“日本潜入テクニック”のすべて」『北朝鮮「対日潜入工作」』宝島社所収を参照)
ただ、元山に比べれば、対日専門の清津からの日本への浸透が圧倒的に多い。
これに対して、鹿児島県日置市の吹上浜海岸で拉致された市川修一さん、増元るみ子さんのカップルと宮崎県青島海岸から拉致された原敕晁(ただあき)さんは、工作船に乗せられ「東シナ海コース」で南浦に運ばれたと考えられる。
これは西海岸の南浦から対馬より西の海域を深く南下してくるコースだ。太平洋側まで回り込んでくることも多い。
2001年暮れの「九州南西海域不審船事件」いわゆる奄美沖不審船事件で自爆した工作船もこのコースで日本に来たのだが、すでに類似の工作船侵入事件は何度も起きていた。
85年4月に起きた「宮崎沖不審船事件」では、日南市沖で発見した不審船を海上保安庁が巡視船のべ23隻と航空機4機で2昼夜1600キロ追跡。不審船は高速で西に逃げ中国領海近くの東シナ海に消えた。後に韓国軍のレーダーが、この船が南浦港に入ったことを確認している。
また、98年8月には高知県沖で、「第十二松神丸」の船名を記した北朝鮮の船から300キロの覚せい剤を公海上で瀬取りしようとした暴力団組長らが逮捕される事件が起きた。米軍は「第十二松神丸」が南浦港を出るときからマークしていたようで、異例なことに米軍は写真と資料を裁判に提出した。
私たちはこの「第十二松神丸」の写真を入手したが、これは先の「九州南西海域不審船事件」の工作船とまったくの同型だった。
(『拉致』より。2002年の小泉訪朝の直前に出版したので、すべて「推測」である。八重子さんについても金賢姫の情報しかなく、新潟から清津へというルートを想定していた)
さて、八重子さんはどちらのコースで運ばれたのか。
宮崎県青島海岸から海州へという北朝鮮の説明は「東シナ海コース」で、この限りで整合的だ。しかし、当時、海州は対韓国工作を専門にした基地で、日本人拉致に使われることはなかったはずだ。この説は否定したい。北朝鮮の説明は不正確だと考える。
金賢姫のいう「清津」上陸説は、「日本海コース」のはずだ。これは、八重子さんが失踪直前に友人に言ったという「好きな人ができたの。その人と新潟に旅行に行くのよ」(文春記事)と整合する。新潟➡清津は有力に思える。
しかし私は、八重子さんが南浦港に着いたという地村富貴恵さんの情報により信ぴょう性を感じる。
実は、地村富貴恵さんは、八重子さんの拉致に関して、もう少し詳しい情報を語っていた。
「知り合いの男性に九州に連れて行かれた。工作員に引き渡され、(工作船で)北朝鮮に連れてこられた」。八重子さんは富貴恵さんにこう語っていたというのだ。(産経新聞09年3月11日付)
(産経新聞2009年3月11日付)
『産経』の記事では、この証言をしたのは「平壌の牡丹峰招待所で一時期、共同生活していた被害者」として名を伏せているが、地村富貴恵さんである。
また、八重子さんは、九州に連れて行った男は「リムジンのような外車に乗っていた知り合い」だと富貴恵さんに話したという。
北朝鮮の南浦に着いたときの状況については、「出迎え役のおばさんに『(日本に)子供がいるのになんで(北朝鮮に)連れてきたの。早く日本に帰して』と激しく訴えると、おばさんは『何でこの子(田口さん)を連れてきたのか』と工作員に言っていたようだった」と八重子さんは語ったそうだ。
富貴恵さんが地村さんとともに拉致されたのは1978年の7月7日、八重子さんは北朝鮮の説明では6月29日に拉致されたことになっている。拉致されて間もなくの9月初め、二人は引き合わされて同居をはじめる。恐怖と心細さにさいなまれていた二人は、互いをかけがえのない存在として意識しただろうと想像できる。
《工作機関の指導員から「(日本人同士は)互いに本名や生年月日、北朝鮮に来た経緯など話すな」と厳命されていたため、共同生活を始めた当初は個人的なことは話さなかったが、次第にうち解け、拉致された経緯についても言及したという。》(記事)
到着した港を南浦と言っただけなら、八重子さんが指導員に指示されて事実と異なる話をした可能性もあるが、工作船の出発地を「九州」と言ったとすれば、これは作り話できるレベルではないだろう。
拉致現場が「九州」となると、北朝鮮の説明にある「宮崎市青島海岸」は有力な候補になってくる。
それでは、八重子さんが「九州」から工作船に乗せられ、「東シナ海コース」で北朝鮮の「南浦」へと運ばれたとして、東京からわざわざ遠く離れた九州まで連れ出したのはなぜなのか。
また、八重子さんが金賢姫に、「清津に着いた」と事実と異なることを言ったのはなぜか。
(つづく)