横田めぐみさんのいた招待所を空から見る

満月だ。
「このあいだのスーパームーンを見ながら、横田めぐみさんたち拉致被害者もこの月を見ているのかな、どんな思いでいるのかなと思いました」
3日の「かわさき市民の会」で横田さんご夫妻にこんなふうに言ったら、早紀江さんは「いつも、今どうしているのかと思います。例えば、めぐみは花が好きだったから、この花を見たらなんて言うかなといつも思ってしまいます」と。毎日、思いを馳せない日はないという。
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近年、拉致関連の情報はあまり出てこなくなったが、横田めぐみさんの情報だけは、ときどき思い出したようにひょこっと報じられる。
今回は、ソウルから、めぐみさんの拉致直後の消息に関する情報が出た。
《【ソウル共同】北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさん=失踪当 時(13)=が1977年11月に新潟で拉致された直後から、当時高校生 だった韓国人拉致被害者が思想教育を受けていた平壌工作員養成施設で朝鮮語や思想を教育された可能性が高いことが25日分かった。韓国で摘発された北朝鮮工作員の供述などから得た情報として関係者が明かした。
 関係者によると、めぐみさんは拉致から約2カ月後の78年1月から平壌市龍城区域にある「以南化環境館」で教育を受けた。ここには77年8月に韓国南西部の紅島で拉致された高校生の李民教さん=同(18)らがいたという。》

《【ソウル時事】韓国の拉致被害者家族でつくる「拉北者家族会」の崔成竜代表は 26日、北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさん(拉致当時13歳) が拉致された直後から3〜4年間、韓国人拉致被害者と共に、平壌工作員訓練施設「以南化環境館」にいたとの情報を明らかにした。
 めぐみさんは1977年11月に拉致され、崔氏によると、その直後から80年代初めまで以南化環境館で暮らした。同施設には、77〜78年に韓国で拉致された当時 高校生の李民教さんや、めぐみさんの夫となる金英男氏らも共に生活していたという。思想教育などを受けていたとみられる。
 以南化環境館は平壌市竜城地区にあり、韓国社会に適応する訓練などを行い、 工作員を養成する施設とされる。》

めぐみさんは拉致問題の象徴だけに、北朝鮮での消息には関心を持たざるを得ない。
これまで、日朝間で、めぐみさんの死亡時期をめぐる「闘い」もあった。
2002年の日朝首脳会談時、北朝鮮側は、めぐみさんが93年3月に精神病院で自殺したと伝えてきた。
ところが蓮池薫さんが、めぐみさんを「94年まで見ていた」と証言したことを北朝鮮に突きつけると、死亡日時を94年3月に一年訂正してきた
さらにその後、地村富貴恵さんが「94年6月、めぐみさんが自分たちの住む招待所の隣に一人で引っ越してきて数ヶ月そこにいた」と証言していることが分かり、94年3月も完全に否定されたのだが、北朝鮮は無視している。

「以南化環境館」は、山腹にトンネルを掘り、内部には体育館のように広いソウル市街のミニアチュアと、ソウルの喫茶店や飲み屋、ホテル、スーパーの店舗など、実物そっくりに作られた施設から成り、そこに拉致されてきた韓国人を配置していた。
工作員は、例えば客として喫茶店に入り、店員の役の韓国人の拉致被害者と会話したりして、ソウルに潜入したときにうろたえないように訓練する。そこで訓練を受けた元工作員から図解入りのこまかいディテールを聞きながら、おぞましさにぞっとした覚えがある。
めぐみさんが拉致された77年から78年にかけて、韓国からは高校生3人が拉致されており、彼らがその施設で働かされていたという話は以前聞いたことがあった。

「拉北者家族会」の崔成竜代表は、北に拉致された韓国人を何人も脱北させた実績があり北朝鮮内部にも情報源を持つ人物だが、しかし、今回の情報は、これまで分かっている事実と矛盾し、信憑性を疑う。

というのは、曽我ひとみさんによれば、ひとみさんは、拉致された直後の1978年8月18日、めぐみさんのいる平壌市内の2階建ての招待所で一緒に暮らし始めているのだ。
心細かった二人は姉妹のように頼りながら暮らし、日本の童謡を歌ったり、互いの拉致された状況を話して「怖かったねー」と慰めあったりしたという。
二人は、日本が国際手配している工作員辛光洙(シングァンス)から、朝鮮語主体思想、歴史、数学、物理、科学などの勉強を教わっていたという。
1979年1月から3ヶ月ほど別れる時期があった以外は、1980年3月までずっと一緒にいたと曽我ひとみさんは言っている。

今回の情報の「78年1月から」(共同)「拉致された直後から3〜4年間」(時事)以南化環境館にいて朝鮮語や思想を教育されたということと整合性があるのか。
昼間の一定時間、そこに通わされていたというのならありうるかもしれないが、どうなのか。さらなる情報を待ちたい。

蓮池さんによると、北朝鮮では、ひんぱんに住む場所を変えさせられたという。
拉致被害者の住んだ場所の特定が困難なのは、そのせいもある。
私たちジン・ネット取材班が、独自につきとめた拉致被害者の居場所を紹介してみたい。
例によって、グーグルアースで空から見ることにする。
(以前、田口八重子さんのいた招待所を見たhttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20141129

平壌駅から直線で15キロ南下すると「チャンファ」という駅がある。その東に大きな貯水池があり、その南に連なる山地がみえる。
はげ山ばかりの中に、保護された森の緑が目立つ一角がある。
忠龍里(チュンリョンリ)招待所である。

(写真をクリックすると拡大されます)

道が葉脈のように枝分かれして、その道の突き当たりに1軒づつ建物が建っている。まるで別荘地のような独特の配置である。
これは、互いに連絡を取らないよう隔離しているのだ。
西側が「1地区」、東側が「2地区」と呼ばれ、ここに1984年から86年にかけて、数名の日本人拉致被害者が住まわされていた。


(1地区)



(2地区)

めぐみさんは1地区の3号棟(写真右手の一番下の招待所)で、田口八重子さんと女性工作員スッキと3人で暮らしたあと、85年からは2地区の3号棟(写真一番右の招待所)で一人で住んだ。
そこに5号棟の韓国人拉致被害者の男性が日本語を習いに通っていたという。その男性がのちに夫になる金ヨンナム氏だった。

これはグーグルアースの写真だが、あまりにリアルで、こんな深い森の中の一軒家で、拉致被害者たちが、どんなことを考えながらすごしていたのかと想像すると、いたたまれない思いがする。

めぐみさんたちがここに住まわされたのは80年代中ごろ。ここに紹介したグーグルアースの画像は最近のものだが、当時とほとんど変わっていない。ということは、今もおそらくは工作機関の招待所として使われているのだろう。
あの国の体制は、全く変わっていない。