『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー賞国際長編映画賞を受賞したとのニュース。
夕方の時間が空いたので、つれあいに予約を頼んだ。明日からは混んで観られないだろうと急いだのだが、ぎりぎり最後の2席が取れた。
長い映画なのだが、不思議な緊張感に縛られて観続けると最後はどっと解放されてさわやかに終わった。主人公が演出するチェーホフの『ワーニャ伯父さん』の劇が大事な意味をもつ構成がすばらしい。この見事さが原作からくるのか、映画の脚本、ディレクションなのか知りたくなり、帰りに本屋で「ドライブ・マイ・カー」をおさめた村上春樹『女のいない男たち』を購入。さすがにその本が大量に置いてあった。
『ワーニャ伯父さん』は売り切れ。図書館で読もう。
(映画館の前に「緊急上映!」として「ひまわり」の看板が。ウクライナ危機の余波)
これからも面白い邦画がたくさん出てきてほしい。
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地村(当時は浜本姓)富貴恵さんは、八重子さんと同居するにあたり、本名や生年月日をはじめ個人的なことは話さないようにと指導員から言われていたが、次第に親しくなってなんでも話すようになったという。
この原則は、金賢姫と八重子さんが同居した際にも厳しく守らされた。
八重子さんは富貴恵さんとの同居中に与えられた朝鮮名、高恵玉(コ・ヘオク)ではなく、李恩恵(リ・ウネ)を名乗らされた。金賢姫は工作名の金玉花(キム・オッカ)を名乗り、八重子さんは金賢姫を「玉ちゃん」と呼んだという。
1年8ヵ月も一緒に暮らしたので、当然親しくもなり、酔ったりくつろいだりしたときや、ちょっとした話の端々に口をついて出た情報の中には、指導員に禁止されている事実が含まれており、子どもを残してきたことや母親が佐渡の出身であるなどの断片的な情報が、李恩恵が八重子さんであることを突き止める上での決め手になった。
しかし、互いの秘密の厳守は、拉致被害者同士の共同生活よりも、はるかに徹底された。金賢姫はこんなエピソードを明かしている。
「ある日、休憩時間に雑談をしていた恩恵先生が、私にかわいい日本の名前を付けてあげると言いながら、自分が考えていた名前を紙に書き並べた。私は、彼女が紙に書き散らす名前をただ何気なく見ていたが、「ちとせ」と書くと、突然狼狽したような表情を見せ、あわててガリガリとその名前を消し去った瞬間、それが彼女の名前ではないか、と察知した。」(『忘れられない女』文庫版P20)(同様の記述が『いま女として』下P177にもある):
「ちとせ」はのちに、八重子さんがキャバレー『ハリウッド』で使っていた源氏名だったことが判明する。源氏名を漏らしただけでも狼狽するほどの徹底ぶりだったわけである。
金賢姫によれば、「互いの身元がわかるような話ができない決まりになっていた」ので、「李恩恵の本名は何で、出生地はどこで、両親はだれで、兄弟は何をしていて、彼女の子供の父親はだれかなど、日本の警察は根掘り葉掘り訪ねてきたが、どれひとつについても自信を持って答えることはできなかった」という。(同P40)
工作船に乗せられて到着した港について、八重子さんが金賢姫に言った「清津(チョンジン)」よりも、富貴恵さんに明かした「南浦(ナンポ)」の方が事実に近いと考えてよいだろう。
関連して一つおもしろい話がある。
金賢姫は「どれひとつについても自信をもって答えることはできなかった」のに、李恩恵先生の誕生日は7月5日だと言った。すると、日本の警察官も同席した韓国の捜査官も、誕生日まで知っているくせに、どうしてほかのことを知らないのかを不審がったという。
「私が東北里(トンブンニ)3号招待所に入所したのが7月4日。次の日の7月5日に李恩恵先生の誕生パーティが開かれたので、彼女の誕生日をはっきり覚えているだけのことだ」。(P40)
金賢姫の自信ありげな証言に、日本の警察まで引きずられたようで、91年に李恩恵の身元判明を発表した記者会見(なお、会見当時、田口八重子さんの名前は一般向けには伏せられていた)で配布された【李恩恵の身元特定対照表】では生年月日が一致したことになっている。
(身元特定対照表。③が生年月日。『週刊ポスト』より)
(上の資料をそのまま書き直したもの。左が金賢姫証言。右が八重子さんの特徴)
金賢姫供述の「7月5日」の横の八重子さんの欄には「7月5日ころ」と記してあるのがわかる。これは「ちとせ」という名とともに、対照表のなかでも重要な類似点の一つだ。しかし、八重子さんの戸籍上の誕生日は8月10日なのである。
先に紹介したように、そもそも本名や生年月日をはじめ個人的なことは明かさない原則で共同生活をしたのだから、7月5日がほんとうの誕生日かどうかチェックすべきなのに、メディアでもこれがそのまま通ってきた。例えば石高健次『これでもシラを切るのか北朝鮮』(光文社1997年)でも、八重子さん特定のための一致点として誕生日が7月5日であることをあげている。(P112~113)
この矛盾に食いついたのが、大韓航空機爆破事件は北朝鮮がやったのではないと謀略論を主張したジャーナリスト、野田峯雄氏で、これをネタに『週刊ポスト』(1991年8月23日号)で「巨弾スクープ!9月「日朝外交」また遅らせるのか 「李恩恵=ちとせ」写真に重大疑惑」なる記事を書いている。
誕生日の食い違いについて、警察庁の吉野警備局長はこう説明したという。
「金賢姫の供述した李恩恵の誕生日とちとせの誕生日は一致しなかった。だが、(ちとせの)家族に確認したところ、父親が“実際の誕生日”より1か月ないしは2か月遅れで出生届を出していることが分かった。計算すると7月5日ごろとなり、一致した」。
しかし、この説明はどうみても「こじつけ」だろう。父親は八重子さんが小さいころに亡くなり、八重子さんが自身の出生届の遅れを知っていたとは考えられない。
この謎解きは簡単で、金賢姫自身、7月5日が八重子さん(李恩恵)の本当の誕生日かどうか分からなかったと言っている。先の7月5日にパーティがあったとの箇所に続けて、こう言う。
「その日が彼女の新暦の誕生日なのか、旧暦の誕生日だったのか、あるいはそれには関係がなく、たとえば北朝鮮の土地を初めて踏んだ日を誕生日にさせられた、というような何か意味のある日であったのかどうかはわからない。だが、彼女の誕生日のパーティが開かれたのは7月5日だったので、私はそう覚えていた」。
実は日本人拉致被害者同士でも、当時は本当の誕生日を知らせなかったことがわかってきた。
地村富貴恵さんが、2012年に飯塚繁雄さんに送った手紙には当時の様子をこう書いている。(「八重ちゃん」は八重子さんのこと)
《八重ちゃんが来る前にシンガンスといたので工作員になるには、名前、生年月日など、本当のことを言っては駄目だと言われ、私は生年月日も10日遅れにしたりしていました。その時は八重ちゃんも7月7日が誕生日でしたが、本当の誕生日は日本に帰って来てから分かりました。だからお互いお誕生日は、違う日に祝っていた訳です。》
富貴恵さんと八重子さんの間柄でさえ、互いの誕生日をわざと違えて教えあっていた。当時八重子さんは7月7日を誕生日にしていたというのだ。
延々とオタクなディテールに分け入ってしまったが、もとに戻ると、八重子さんが金賢姫に、事実とは異なって、自分が上陸したのは「清津」だったと告げることは不思議ではない。
では、なぜ東京から遠く離れた九州から拉致したのだろうか。
(つづく)