地村保さんが心残りだったこと

 拉致被害者で2002年に帰国した地村保志(やすし)さん(65)の父、地村保(ちむら・たもつ)さん=福井県小浜市=が10日亡くなった。93歳だった。
 2002年9月の日朝首脳会談金正日が拉致を認め、同10月に保志さん、富貴恵さん夫妻ら拉致被害者5人の帰国が24年ぶりに実現した。
 そのとき、保さんは保志さんと感動の再開を果たした。

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 しかし、保さんの妻のと志子さんは息子が帰ってくる半年前の4月に74歳で亡くなっていた。保さんは亡くなるまで、そのことが心残りだったのではないか。

   私は取材で地村家には何度もお邪魔し、富貴恵さんのお兄さんの浜本雄幸さんの民宿に泊めていただいたこともあった。
 寝たきりのと志子さんが息子との再会を唯一の生きがいにしており、夫の保さんがその思いを叶えようと懸命に努力する姿を目の当たりにしただけに、母子の再会がわずか半年の差でかなわなかったことが今でも本当に残念で、とても悔しい思いが残っている。

 

 若い人はこの事件を知らないと思うので、保さんの来し方を中心に振り返ってみたい。あらためて拉致が、本人だけでなく、残された人々にも言い尽くせないほどの苦しみを与える残酷な犯罪であることを知ってもらいたい。

 

 小浜市は昔から栄えた、京都まで海産物を運んだ「鯖街道」の起点の町だ。近年ではオバマ大統領が当選したとき「オバマフィーバー」に沸いたことを覚えている人もいるだろう。

 

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一家四人。右が5歳の保志さん、左が長男の広さん。

 保志さんは地村家の次男に生まれた。父親の保志さんは大工で、外に働きに出ることが多く、田んぼ仕事は母親のと志子さんがやっていた。保志さんは中学校から下校すると、まっすぐに1キロほど離れた田んぼへ向かい、畦道にカバンをほっぽりなげ「母ちゃん、休んどれ」と言って手伝うのが日課だった。母親思いの子だったのである。高校に入ってからは汗だくで耕運機を扱う保志さんの姿が田んぼに見られた。下校の時分になると、と志子さんがよく「やっちゃん、まだ来んかなあ」と息子を待っていたと近所の人は言う。

 若狭高校商業科で生徒会長をつとめ、成績もよかった保志さんは、推薦で大阪の日立造船に入った。入社式には500人超の新入社員がいて、ほとんどが大卒だったが、代表して式の答辞を読んだのは保志さんだった。
 だが2年後、保志さんは会社員は性に合わない、大工になりたいと会社を辞めた。保さんは「一人前になるには、他人の飯を食わんとダメだ」と、気心の知れた棟梁に息子を預けた。舞鶴で会社勤めをする長男に代って保志さんが家業を継ぐことになった。
 と志子さんは自慢の跡取り息子が可愛くてたまらないようで、20歳を過ぎた保志さんを「やっちゃん、やっちゃん」と小さいころの呼び名で呼んでいた。

 事件が起きたのは、1978年7月7日(金)の七夕だった。保志さんとジーンズショップにつとめる浜本富貴恵さんのデートの日だった。

 二人は当時23歳。1週間前に結納を済ませ、11月に結婚式場の予約を入れていた。ちょうど失踪の前日には、地村家で結婚が話題になっていた。
 新婚1年は二人が別所帯で県営住宅に住み、その間に実家の近くに家を新築して暮らすということになった。「家はわしが建ててやる」と保さんは約束している。二人はどこから見ても幸せの絶頂にあった。


 その夜、二人は小浜湾に面したレストランで夕食をとり、8時ごろそこを出たのを最後に消息を絶った。富貴恵さんは「10時には帰る」と家族に言い残して家を出ている。

 警察が捜したところ、近くの丘の上にある小浜公園の展望台に、保志さんの運転していた軽四輪トラックが駐車したままになっているのが見つかった。それ以外に手掛かりといえるものはまったく見つからない。順風満帆の二人に家出など考えられず、「神隠し」とみな不思議がった。

 

 のちに保志さん、富貴恵さんは、当日あった出来事を証言している。
 公園の展望台で4人組の男たちに襲われ、袋詰めにされたうえでゴムボートに乗せられ、工作船に移されて北朝鮮清津港に運ばれたという。

www.fukuishimbun.co.jp

 「俺はもう殺されるんじゃないかと思った」(保志さん)、「外国に売り飛ばされると思った」(富貴恵さん)という恐怖の体験だった。二人とも、北朝鮮による拉致などという可能性を考えてはいない。そういう時代だったのである。

 保さんは、保志さんが失踪したあと、レストランから展望台までの間の道を、あの日息子が運転した軽トラックで何度も何度も往復しながら、沿道の家々に手掛かりがないかどうか聞いて回った。それが何年も続くものだから、周囲の人たちから、保さんは気がふれたのではないかと思われていた。保さんは、自分にできることが他にないし、何もしていないと苦しくてたまらなかったという。

 

 地村さんの自宅を最初に訪れたとき、保さんは離れの2階の保志さんの部屋を案内してくれた。

 失踪から20年近く経っていたが、そこは当時のままだった。プラモデル作りが好きだったとのことで、大型の船や飛行機が飾ってある。きれいな仕上がりが手先の器用さを物語っていた。クローゼットにはブレザーやズボンがきれいに並んでかけてある。

 理由のわからない失踪に、部屋にものに手をつける気にならなかったのだ。「保志がいつ帰ってきてもええようにしとります」と保さんは言った。

 

 息子と婚約者の失踪は、母親のと志子さんの心身に激しいショックを与えた。
 「やっちゃん、どうしとるんやろ。帰ってこんやろか」と毎日泣き続けた。田んぼにも出なくなり、しばらくするとうわごとをつぶやくようになった。ボケたのでは、と医者に診せると「心労が原因の高血圧症」との診断だった。
 2年後の1980年7月、と志子さんは脳梗塞の発作で倒れた。

 と志子さんはそのまま寝たきりになり、言語障害で会話も不自由になった。話が息子のことに触れると、感情が刺激されるのか決まってワーッと泣いた。そして、懸命に口をあけ、一音づつ絞り出すように訴えるのだった。
 「やー、ちゃーん、あーい、たーい」

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自宅ベッドでのと志子さん。保志さんの写真を見ては泣く23年間だった。(読売新聞社

 保さんはと志子さんを自宅において一人で介護した。食事、入浴、排泄の世話はもちろん、掃除や洗濯などの家事もある。家の周りを散歩させたり、髪の毛をとかしたりと、身の回りのこまごました世話も大変だった。
 保志さんのことが気になるが、なすすべもなく、介護だけに明け暮れる年月が過ぎていった。
 私から見ると、妻の介護をこれだけやれる夫が日本にどれほどいるかと思うほどの献身ぶりだった。また、それをあたり前のようにこなしていることに感銘を受けた。

 保さんの生活を一変させたのは、1997年3月の家族連絡会の結成だった。息子をはじめとする拉致被害者を救出する運動が生きがいとなったのだ。
 保さんはまず、政府に救出を要請する署名集めに没頭した。家々を一軒づつ回っての署名集めに加え、自治体関係者を訪ねて協力を頼みこんだ。そのうち回覧板方式で署名簿を回してくれる町内会も現れ、保さんの熱意が行政も動かすようになっていった。
 家族会とその支援団体「救う会」が集めた署名は、2002年6月でおよそ175万人分あったが、うち保さんが関係した分が実に30万人分にもなる。署名にかける保さんの熱心さは群を抜いていた。

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署名活動中の保さん(福井新聞

 陳情や集会などで家を空けることが多くなり、と志子さんの世話が難しくなると期間を決めて施設に預けるようになったが、寂しがらせないように時間を見つけては、と志子さんの枕元で話をした。きょうは署名がこんなに集まった、あのまちの町内会も協力を約束してくれたなどと、と志子さんを心配させないように希望を持たせる話題を選んだ。

 そのころ、と志子さんが保さんに、枕元で読んでくれと何度もせがむ本があった。
 金賢姫の『忘れられない女(ひと)~李恩恵先生との二十ヵ月』だ。李恩恵(リウネ)先生とは、金賢姫に対する日本人化教育をさせられた拉致被害者田口八重子さんである。
 その中に、彼女が工作員教育を受けていた「招待所のおばさん」から聞いた情報として、拉致された日本人の描写が出てくる。工作機関の招待所には拉致されてきた外国人が一時暮らすこともあり、身の回りを世話する「おばさん」たちは何かと情報を持っていたのだ。

 《そんなふうに話をする招待所のおばさんの純朴な顔には、見るも哀れ、聞くも哀れだという同情の表情がうかがえた。そして、拉致されてきた人の話は一つや二つではなかった。
 ある人は、連れてこられるときから強く反抗したために、北朝鮮に着いたときには満身傷だらけの姿であった。
 ある日本人の男性は、とても心がきれいで大工仕事をよく手伝ってくれたという。
 またある日本人女性は、北朝鮮で外国人と結婚させられたという。

 ある日本人夫婦は、海辺でデートを楽しんでいたところを拉致され、北朝鮮で結婚式を挙げたという。
 また、拉致された人のなかには、まだ高等学校に通っていた少女もいたという。その女生徒は金持ちの娘だったのか、自分のものを洗濯することさえできなかったという。・・・》
(文庫版 P249~)
 今から見ると、実に正確な情報だったことが分かる。

 《ある日本人の男性は、とても心がきれいで大工仕事をよく手伝ってくれたという
 保さんがこの一文を読むと、と志子さんは必ず泣いた。
 「とても心がきれいで」に反応して、「あの子、あんなんやったんや」と、保さんにしか聞き取れない発音でつぶやいた。続けて「朝鮮、やっちゃんを帰してくれるやろか」と聞くときもあった。「皆で頑張って帰させるようにするから、と志子も長生きしろ」と励ますと「うん」「うん」と頷いていた。

 2002年4月6日の夕方4時、と志子さんが危篤だとの知らせが保さんの携帯電話にかかってきた。小浜病院の医師が電話口で「呼吸が止まるようになってきました。申し訳ないですが、覚悟しとってください」と言った。
 電話を受けたのは、関西空港から小浜市に帰るバスの中だった。4月4日から韓国に行って、さっき帰国したばかりだ。小浜市長が、姉妹都市になっている韓国の慶州市を訪問するので、一緒に行って拉致問題解決の協力を要請したらどうかと、保さんや富貴恵さんの兄、浜本雄幸さんを誘ってくれたのだった。

 出発前日の3日の夜には、と志子さんを預けている特養ホームで、「やっちゃんのこと、頼みに、韓国に行ってくるわ」、「はよう帰ってきて」と言葉を交わした。と志子さんは気分がよさそうで、夜11時ごろまで話し込んでいた。ところが、保さんがまだ韓国にいる5日、急に熱が出たため、と志子さんは特養から小浜病院に移されていたのだった。

 つい3日前元気な妻の姿を見ていた保さんは危篤の知らせに驚いた。保さんは「6時半にはそっちに着けると思いますんで、注射でも何でもしてそれまではもたせてください」と電話の向こうの医師に頼みこんだ。
 しかし、渋滞でバスは遅れ、病院に着いたのは6時45分だった。
 病室に飛び込むと、と志子さんの兄弟たちがベッドのそばにいた。白い布が顔を覆っている。間に合わなかった。死亡時刻は6時36分だった。

 布をとって顔を見た。眠っているようにも見える。体はまだ温かい。思わず保さんは、と志子さんの体をゆすっていた。

 「と志子、目あけい。とうちゃん、帰ってきたんやど」

 叫びながら何回も、と志子さんをゆすった。そばにいた看護婦が見かねて、「お気の毒ですけど、もう受け答えありませんよ」と声をかけた。死んだのは分かっていても、保さんはやめなかった。諦めきれなかった。保志に会うまでは死なないはずではなかったか。

 「帰ってきたさかいに、目あけい」

 肩をゆすると、と志子さんの顔がいやいやをするようにゆれた。
 胸の上で組んである手に触れると指は冷たくなりかかっていた。いつも、保さんがそばに来ると、と志子さんは手を伸ばしてきた。手を握ると安心したようにうなづくのが習慣になっていた。だが、きょうは手を握ってやれなかった。冷たい指をさすりながら、不憫さにはじめて涙が込み上げた。

 せめて保志の消息だけでも知らして、楽にしてやりたかった。
 これが保志さんの一番の心残りだった。

 そしてその半年後、保志さんと富貴恵さんが帰国し、飛行機のタラップから降りてくる姿に日本中がくぎ付けになった。
 保志さんと抱き合った保さんの笑顔。だがその胸には、そこにいないと志子さんへの一層の不憫さがこみ上げていたのではないか。
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 地村保志さん、富貴恵さん夫妻は11日、保志さんの父、地村保さん(93)が10日に亡くなったことを受け、福井県小浜市を通じ、連名でコメントを出した。全文は次の通り。

 7月10日午前2時39分、父、保は93歳で永眠いたしました。
 父は生前、私たち拉致被害者の救出に向け、全力で闘ってくれました。そのお陰で、私たちは平成14年(2002年)10月に無事、祖国日本へ帰国を果たすことができました。
 父の救出活動がなければ、私たちの帰国もかなわなかったと思います。あらためて、父には心から感謝したいと思っています。
 横田めぐみさんの父横田滋さんに続き、父も亡くなりました。拉致被害者・家族は高齢化し、解決には一刻の猶予もありません。
 父は生前、すべての拉致被害者が帰国できることを心より望んでいました。父の遺志を引き継ぎ、我々の世代で拉致問題が解決されるよう今後も取り組んでいきたいと思います。

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2005年、保さんは執念の闘いを本にした。主婦の友社

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その本にいただいたサイン。信念と根性で生きよ、とある。当時78歳だったのか・・

 地村保さんは、保志さん、富貴恵さんとその子どもたちが帰国したあとも、まだ帰らぬ拉致被害者たちのために熱心に活動を続けていた。
 長い間の闘い、ほんとうにごくろうさまでした。
 ご冥福をこころよりお祈りします。

 

(地村保さんに関する記述は拙著『拉致―北朝鮮の国家犯罪』(講談社文庫)による)