「唯識」哲学を中軸にすえた法相宗は、三論宗の次に日本に入ってきたのだが、三論宗は消えたので、いま日本に残る仏教宗派の中では最も古い宗派ということになる。
(前回、法相宗の総本山を興福寺と書いたが、興福寺と薬師寺の二つが本山なので、訂正します。)
『摂大乗論』(しょうだいじょうろん)を書いたアサンガ(漢訳名、無著=むじゃく、「無着」とも書く)には、実弟、ヴァスヴァンドゥ(世親)がいた。
やはり高名な仏教哲学者で、世親菩薩と呼ばれ、興福寺に無著とならんで立像がある。こちらのお顔は、穏やかなお兄さんとは雰囲気が違って、ちょっとごついお顔で、私は、六派羅蜜(ろくはらみつ=覚りへの六つの方法)でいうと「持戒」、「精進」のイメージを感じる。
運慶の作だというのだが、彫る人は、どうやって二人のイメージを作り上げたのか。生年、没年もはっきりしていない二人である。詳しい伝記も肖像画も残っていない。考えると不思議である。
で、『摂大乗論』「依戒学勝相」(戒律による学の勝れた相)にある、菩薩は殺生しても罪にならないという戒律。
これを世親の『摂大乗論釈』では、「良医」にたとえている。
「菩薩は、たとえば良医のごとく、饒益(にょうやく=他に利益をもたらすこと)の心をもってまたこれを殺すといえども、しかも少しの罪もなく、多くその福を生ず」。
この一連の箇所を、長尾雅人『摂大乗論』(和訳と注解)では、こう解説している。
「例えば財を盗むために賊が人を殺そうとしているのを見て、菩薩は次のように考える。この賊はその殺人の罪によって無間地獄に陥り、長く大きな苦を受けるに違いない。その殺人罪を阻止するためには、この賊を殺す以外に手段はない。たとえそれによって自分が地獄に堕しようとも、それは意に介する所ではない、と。そのように考えてその賊を殺したとしても、菩薩のこの行為は罪ではなく、却って福徳を生ずる。それはあたかも良医が、少しばかりの痛みを加えることによって、長い病患から人を救うのと同様である」
世親は、はじめ小乗仏教(そのなかに「説一切有部」という派があった)の理論家だったのが、兄の無著に説得されて大乗(唯識)に転向したとされる。当時のガンダーラ地方は、伝統派の小乗仏教(部派仏教)と新興の大乗仏教との理論闘争の最先端だったようで、『摂大乗論』には全編、小乗に比べて大乗がいかに勝れているかが、これでもかこれでもかといわんばかりに主張されている。ということは、大乗仏教とは何かが、もっともくっきりとした輪郭で描かれているともいえるわけだ。
大乗仏教の立場からは、小乗は戒律を形式的に守るだけだと批判される。
例えば、「安居(あんご)」といって、出家者が寺院を出てはならない時期が決められているが、大乗の菩薩にとっては人を救うことが最優先であるから、そのために外出するのは罪ではなく、逆に外出を控えたら罪になる。
あるいは、出家者が女性に触れれば大きな罪になるとされるが、おぼれかけた女性を見たら、抱き上げて介抱するのが菩薩に求められることであり、女体に触れることは何ら罪にならない。
「慈悲」こそが菩薩の思考・行動原理であり、心から衆生のためと思って、語り、行動することが戒律の「形」を超える。私はこう解釈している。
自殺は仏教では一般には禁じられる行為だが、かつてベトナムでは、何人もの僧侶が平和を訴えて焼身自殺を行い、今は中国のチベット族の地で仏教徒たちが自らの命を断って抗議を続けている。
ベトナムもチベットも大乗仏教で、この行為は慈悲の心から発したものと私は理解している。大乗には、こうした厳しさ、激しさもあるのだと思う。
そういえば、西洋には、ヒトラー暗殺計画を立てたボンヘッファーという牧師がいた。これはどう理解すればよいのか。
(つづく)