図書館で調べ物をして駅に向かうと、小さな橋があり、そばの土手にユリやアジサイが咲いている。台風でアジサイが一部倒れていた。
ここは私有地でないのに、誰が植えているのかと前から気になっていた。橋のたもとの家にご老体(写真の左はしに写っている)がいたので尋ねると、指で自分を指して「私です」という。4年前、役所に行って、土手に花を植えたい希望を述べると「お好きなように」と言われたので勝手にやってますとのこと。道行く人の目を楽しませてくれてありがとう。
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さて、大乗仏教のきわめてオーソドックスな論書に、「菩薩が、場合によっては衆生の本当の利益のために衆生を殺すことがある」と書いてある問題。
岡野守也『大乗仏教の深層心理学』(青土社)に、秀逸な解説があるので、紹介しよう。
これは、おそるべく危険な思想ではある。ほんの一歩間違うと、宗教の名において殺人を合理化することになる。実際、そうした大きな過ちに陥った宗教集団は、過去にも現在にもあるようだ。決して安易に語ることは許されないと思う。しかもこれは輪廻が前提になっている考え方だから、輪廻を前提にしていない現代社会でこうした思想を語ることは基本的に控えなければならない。実のところ私も、『摂大乗論』にこうした個所があることを紹介すべきかどうかためらった。
しかし、いまだから言えるということを承知の上で言えば、例えばヒトラーという人間について、「彼も人間だから、否定できない。殺してはいけない」という態度をとるか、「彼は、この際、殺すほかない」と暗殺計画を立てるか、どちらに人間の道があるかという問題を考えると、あえて彼を殺すしかないという選択が、宗教者にはありうると思う。実際に、第二次大戦中のドイツの非常に真剣なクリスチャンの中に、あえて暗殺計画を立てた人たちがいる。その中に、有名なボンヘッファーという神学者もいた。これは、計画が緻密でなかったために発覚して、彼は逮捕され獄死したのだが、それはともかく、こうした判断もぎりぎりの状況ではありうるだろう。
いま日本は表面上そういった深刻な事態はないから、関係ないことのように思うかもしれない。しかし、例えば、私たちがナチス支配下におけるドイツ国民だったらどう生きるかと問われたときに、どう答えるだろうか。ナチスはナチスなりに法律を作っていたわけだ。かなりの部分は、法律で許されたことをしていたのである。そして、平均的な国民倫理では、当時の法律に従っていればいいのだし、それどころか、例えば法律に従って兵士になり、収容所の看守になり、ユダヤ人を殺すためのガス室のボタンを押す役目を実行し・・・というふうに、法律上はそれをやることが国民の義務になったりするのわけだ。
その時、国民としての義務に反してもあえてそれをやらないどころか、場合によってはヒトラーの暗殺を企てなければならないかもしれない。そういう極限状況で、どんな倫理の基準を選ぶか、ここまでの深さで考える必要があるのではないか、と私は思う。(つづく)