菩薩が人を殺すとき2

takase222012-06-06

『摂大乗論』(しょうだいじょうろん)を書いたのは、アサンガ(漢訳名、無著=むじゃく、「無着」とも書く)という、4〜5世紀にガンダーラに生きた論師(仏教哲学者)である。
実弟に、やはり高名な論師のヴァスヴァンドゥ(世親)がいて、この兄弟の立像が奈良興福寺の北円堂にある。運慶の作とされ国宝だ。数年前に東京で展示されたとき、直に見たが、見上げるような巨大な像で迫力があった。写真は兄の無著の像。澄みわたった表情がとてもいい。
兄弟は、ガンダーラ、今のパキスタンペシャワール付近で生まれたという。バーミヤンの大仏がタリバンに爆破されたニュースを憶えている人もいると思うが、世界で最も治安が悪いといわれるこのあたりは、かつて仏教文化が絢爛に花咲き、仏教理論においても芸術においても最高レベルの達成をみせたのだった。
この無著・世親兄弟は、「空」(中観)と並ぶ大乗仏教の思想的頂点とされる「唯識」の理論をまとめたことで知られる。あの玄奘三蔵が命をかけてインドまでの大旅行をしたのは、一般には「仏教(一般)を学ぶため」とされるが、実は目標をもっと絞っていて、唯識をマスターしたいという熱情からだった。それほど魅力的な教えだったわけである。
(初心者なのに、このブログで、唯識をちょこっと解説したことがあるhttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20090221
この玄奘の導入した唯識の流れが、日本に伝わり、奈良仏教、南都六宗の一つ、「法相宗」になった。興福寺が総本山で、薬師寺法隆寺、京都の清水寺などが法相宗のお寺。日本で二番目に入ってきた宗派(三論宗の次)で、この派のお寺のラインナップを見ても、まさに大乗仏教のオーソドックス、正統派といえよう。
さて、仏教史のおさらいはきりあげて、『摂大乗論』である。
きのうの文章はどう解釈すべきなのか。
実の弟、世親(ヴァスヴァンドゥ)が『摂大乗論』の注釈本を書いている。『摂大乗論釈』といい、玄奘が漢訳している。『新国訳大蔵経』に収められているのを日本語で読める。
ここで、人を殺すときの心構えをこう解釈している。
「我はこの業をなせば、まさに悪趣に堕すべきも、我むしろ自ら往いて必ずまさに彼を脱せしむべし。彼の現在において少苦を加うといえども、彼の未来をして多くの安楽を受けしめん」
意味はこういうことだろう。
私が人を殺せば、私自身はきっと地獄に堕ちるだろう。しかし、彼をこのままにしていたら、彼が地獄に堕ちてしまう。彼をそうさせないためにも、あえて私はやるのだ。彼を今殺すことで「少苦」を与えるが、将来、彼には「安楽」を得させることになる。
どうして、こんな理屈がなりたつのか。
そこには、大乗仏教の、非常に高い思想的な達成があった。
(「悪趣」とは「六道」のうち、天と人間より下の四つ、修羅、畜生、餓鬼、地獄)
(つづく)