勇気あるジャーナリストがノーベル平和賞に

 今年のノーベル平和賞の選考はとても喜ばしい結果になった。

 受賞するのは、フィリピンの著名ジャーナリスト、マリア・レッサ氏とロシアの独立系新聞編集長ドミトリー・ムラトフ氏

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TBSより

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TBSより


 《レイスアンデルセン委員長は授賞理由について、両氏がフィリピンやロシアで「表現の自由のための勇敢な闘い」に取り組んできたと説明した。「民主主義と報道の自由がますます不利な状況に直面している世界で、理想のために立ち上がったすべてのジャーナリストの代表だ」とたたえた。表現の自由は紛争回避に「不可欠だ」とも強調した。
 強権体制と対峙する人々の言論の自由を後押しする狙いを授賞に込めた。》(毎日新聞

 「民主主義国」の数がどんどん減って自由にモノが言えなくなっている世界への警鐘である。温暖化の予測に関する研究を先駆的に切り開いた真鍋淑郎さんがノーベル物理学賞を受賞したことにもノーベル賞の良き「政治性」を感じる。

 マリア・レッサ氏は、フィリピン人のジャーナリストであり作家。マニラ生まれ、9歳までフィリピンで育つ。その後両親と米国へ。プリンストン大学分子生物学と演劇を学ぶ。1988年から2005年まで、CNNのマニラ事務局長、ジャカルタ事務局長。11年までフィリピンABS-CBNに勤務。11年8月にMovePHいうFBページをスタート、12年1月にウェブサイト『ラップラー』へと進化させる。以来、フィリピンの主要なニュースポータルサイトとなり、ローカルおよび国際的な賞を受賞。https://www.rappler.com/

 「アジアのトランプ」と呼ばれるフィリピンのドゥテルテ大統領の政治手法を最も激しく批判するのが、同国で最も影響力のあるネットメディア『ラップラー』だ。

 私は一昨年の春、彼女を主人公にした番組企画「フィリピン メディアと権力~ドゥテルテ大統領vsマリア・レッサ」を書いて、いくつかの番組に売り込んだ。残念ながら実現しなかったが・・。(振り返ると、実現しなかった企画のなんと多いことか)

 ドゥテルテ氏は、「麻薬撲滅」をはじめ強引な治安対策をアピールして大統領になった人物だが、『ラップラー』は撲滅作戦のなかで、多くの市民が司法手続きなしに「処刑」されている実態を具体的に明らかにし、大統領を厳しく批判してきた。
 フィリピン警察は麻薬犯罪捜査による死者が5千人に上ると発表したが、人権団体によると実数はその3倍にも上るという。
 
 ドゥテルテ大統領は『ラップラー』を目の敵にし、大統領官邸の記者会見から締め出した。さらに2018年11月、脱税の疑いでレッサ氏を起訴。19年2月には、『ラップラー』の過去の記事が名誉棄損にあたるとして国家捜査局がサイバー犯罪法違反でレッサ氏を逮捕。
 さらに翌3月29日には、『ラップラー』の資金調達が外資規正法に違反したとしてレッサ氏をマニラ空港で再び逮捕した。レッサ氏は保釈金を支払い同日釈放され、「憲法の下の権利を主張し闘い続ける」と声明を発表した。                
 ドゥテルテ大統領の強権的な政治手法とメディア弾圧は、国際的にも注目を集めている。オランダ・ハーグ(The Hague)の国際刑事裁判所ICC)は今年9月15日、ドゥテルテ大統領が推し進める「麻薬戦争」で、民間人が不当かつ組織的に殺害された疑いがあるとして、本格捜査の実施を許可した。

 ICCの判事らは、同国で多数の死者を出している麻薬犯罪取り締まりで、人道に対する罪に相当する殺人行為があったと判断するに足る「合理的な根拠」があると指摘した。(9月16日 AFP)

 レッサ氏らフィリピンのジャーナリストたちの追求と国際的な圧力・介入がうまくかみ合って人権状況が改善されることを期待する。

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 ロシアのムラトフ氏はプーチン政権を批判してきた独立系新聞『ノーバヤ・ガゼータ』紙の創設者の一人で現在編集長をつとめる。この新聞は1993年、ゴルバチョフソ連大統領が創設を支援したが、プーチン政権に敵視され、新聞の関係者がつぎつぎと殺害されている。
 受賞発表後の会見で、ムラトフ氏は、過去に殺害された同紙の記者や関係者ら6人の名前を挙げ、「この受賞は報道に命をささげた同僚たちのものだ」と語った。 
 殺害されたなかにはアンナ・ポリトコフスカヤがいる。彼女はとくにプーチン政権によるチェチェンでの人権弾圧、暗殺、謀略を鋭い取材で暴いてきた。

 彼女を尊敬していた私は、2006年夏、彼女に取材を申し込み、了解をもらった。取材の計画を立てていると、彼女が自宅アパート前で銃で暗殺されたとの衝撃的なニュースが飛び込んできた。殺されたのは10月7日。プーチンの誕生日だった。露骨なバースデイ・プレゼントである。

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棺に納められたアンナ・ポリトコフスカヤ

takase.hatenablog.jp

 戦場ジャーナリストよりロシアの政府を批判するジャーナリストのほうが比較にならないほど危険な立場にある。
 いつなんどき殺されるかもしれない恐怖のなかで取材を続ける心境は、どのようなものか。やわな平和に慣れた日本のジャーナリストは、自分たちの仕事ぶりを振り返って、権力批判を怠らないでほしい。

 さっき、アンナ・ポリトコフスカヤ氏に関する古いメールを探していたら、彼女の遺稿となった未完の記事―2006年10月13日付『インディペンデント』紙に掲載―が出てきた。この機会に紹介しておこう。(邦訳は当時『ジン・ネット』社員だったKさん)

 

 毎日、何十ものファイルが私の机の上を行きかう。「テロ」容疑で投獄されている人たちに対する刑事訴訟の写しや、まだ調べ中の人たちについてのものだ。

 私はここで「テロ」という言葉に引用符をつけている。それはなぜか。

 なぜならばこれらの人たちの圧倒的多数が、当局によって「仕立て上げられた」テロリストだからだ。2006年、誰かをテロリストに「仕立て上げる」ことは、本当に対テロの検挙にとってかわっている。そしてそのことで復讐心に燃える人たちが、潜在的テロリストと呼ばれる人たちに、復讐をすることが可能になっている。

 検察も判事も法にのっとった行動をしておらず、有罪である者を罰することには関心を抱いていない。それどころか、クレムリンの対テロのスコアシートの見かけをよくするという政治的な命令に従って動いているのだ。訴訟はブリニ(パンケーキ)のごとく、原材料に手を加えて仕上げられている。

 「正直に話します」という供述を作り出す政府のベルトコンベアは、北コーカサス(つまりチェチェンのある地域)での「テロとの戦い」について適切な統計数字をあつらえることにかけてはとてもよくできている。

 有罪判決を受けた若いチェチェン人の母親たちが私に送ってきた手紙を紹介しよう。      

 「要するに、これらの矯正施設(つまりテロ容疑者が拘束されている施設)は、有罪と宣告されたチェチェン人にとっては強制収用所と化しているのです。○○人だからということで差別されます。大半が、というよりほとんど全員が、でっちあげられた証拠に基づいて有罪となっています。」

 「劣悪な環境に拘置され、人間として辱めを受け、彼らはすべてのものに憎悪を抱くようになります。有罪判決を受けたことのある者たちはみな、これまで生きてきたすべてを無茶苦茶にされて私たちの元に戻ってきます。そして、彼らが自分を取り巻く世界をどう理解するかもまた、無茶苦茶になった状態です。……」

 私は心底からこの種の憎悪を恐れている。私が恐れているのは、それが遅かれ早かれ爆発することになるからだ。そして、世界をこれほどまでに憎悪する若者にとっては、すべての人間が部外者のように見えるものだからだ。

 テロリストを「仕立て上げる」ことが習慣的に行なわれていることは、2つのイデオロギー的なアプローチについての疑問を呼ぶ。私たちは無法と戦うために法を使っているのだろうか?
 それとも、「彼らの」無法を私たちの無法に合わせようとしているのだろうか?

先日、ロシアの要請に応じて、ウクライナがベスラン・ガダエフという人物をモスクワに引き渡した。彼はチェチェン人で、8月の始めに、クリミアで書類チェックを受けている間に身柄を拘束された。

 彼は元々住んでいたところを追われ、そこに移住することを余儀なくされた人だ。8月29日に彼が私に出した手紙を少し引用しておこう。「ウクライナからグロズヌイに引き渡され、警察署に連行されて、Anzor Salikhovの家族とAnzorの友人の家族を殺したかと訊かれました。私は断じて誰も殺していない、ロシア人であれチェチェン人であれ、血を流させるようなことはしていないと答えました。しかし警官は『いや、お前は人殺しだ』と断言しました。私はここでまた、それは違うといいました。」

 「彼らは私を殴り始めました。最初は右目のあたりを2度殴りました。(気が遠くなったのえすが)意識が戻り始めたときには彼らは私を縛りあげ、膝の後ろに固定した金属棒に手錠でつなぎました。手を動かせないようにです。どのみち、手錠はかけられていたのですが。それから彼らは私を持ち上げ---というよりも、私の脚の後ろ側にくくりつけた金属棒を持ち上げて、1メートルほどの高さのスツール2脚の間に吊り下げました。吊り下げるとすぐに、彼らは私の小指に針金をつけました。そして、ゴムの棍棒でそこらじゅうを殴りつけながら、電気ショックです。」

 「どのくらい続いたのかはわかりませんが、痛みのあまり意識を失い始めました。これを見て、彼らは私に、どうだ、話す気になったかと訊くのです。私は、話ならすると答えました。でも一体何について話せばいいのかはわかりませんでした。ほんの少しの間でも拷問を受けない時間があればと口を開いたのです。彼らは私を下ろし、金属棒を取り外して、私を床にたたきつけました。『喋れ』と彼らは言いました。」

 「何も言うことはない、と私は言いました。すると彼らは右目の辺りを金属棒で殴りつけてきました。さっきも殴られた場所です。それからまた先ほどと同じように私を吊り下げて、同じことを繰り返しました。それがどのくらい続いたのかは覚えていません。……何度も、彼らは私に水をかけました。」

 「昼ごろ、平服を着た警官が近づいてきて、何人かのジャーナリストが話を聞きに来ている、3件の殺人と1件の強盗を自白しろ、と言いました。」

 「その警官は私に、もし同意しなければ警察はお前に対してまた同じこと(つまり拷問)を繰り返し、お前を性的に攻撃して口を割らせるぞといいました。私はわかりました、そうしますと答え、ジャーナリストたちの取材に応じました。警察は私に、警官(の尋問)による怪我は、逃亡しようとしたときに負ったものだと証言しろと強要しました。……」

 ベスラン・ガダエフの弁護人であるザウル・ザクリエフは、多権団体の「メモリアル」に連絡し、依頼人はグロズヌイ警察の敷地内で身体的・精神的暴力にさらされた、と知らせた。

 ガダエフは「山賊罪」で起訴され、グロズヌイの第一刑務所の病院棟に拘禁されているが、そこでの書類には彼の怪我が詳細に記録されている。ザクリエフ弁護士はチェチェン共和国の検察官にこれらの苦情を提出している。

※記事はここで途切れており、未完である。