軍事郵便に見る日露戦争

 ヒヤシンスが咲いている。

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 ほったらかしにしていても毎春、律儀に玄関先に花をつける。可憐だな。
 ただ、まったく世話をしないのでだんだん小さくなっているのが申し訳ない。

 ヒヤシンスは、水栽培した子ども時代を思い出させ、ちょっとしんみりさせる花だ。

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 桂木惠『軍事郵便は語る~戦場で綴られた日露戦争とその時代』信濃毎日新聞社刊、1400円+税)という本をとてもおもしろく読んだ。

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長野県小県郡県村(現東御市)から日露戦争に出征した兵士たちが、母校である旧県(あがた)尋常高等小学校(現東御市立田中小学校)の校長小林彦次郎に宛てた軍事郵便の解読と評論
 この軍事郵便は日露戦争開戦直後の1904年3月から兵士帰還が終了した1906年2月までに出された約550通で、彦次郎の子孫が保管してきた。個々の兵士の足跡や軍隊内部の日常生活などが細かく書かれており、研究者による専門書や軍などの公的記録にはない、戦地の兵士の生の声が綴られている。
 著者は、元高校教諭で上田小県近現代史研究会事務局長。兵士たちが母校の校長に送り続けた550通の手紙を読み解くことによって、日露戦争とその時代について考える。」(出版社による内容紹介)

 著者の桂木惠さんは、私の大学時代からの旧友で、長野県で社会科の教師を勤めあげたあと、在職中から手がけてきた地域史の研究を続けてきた。
 2014年から、膨大な軍事郵便の解析作業を進め、本書のエッセンスは、2018年に信濃史学会誌に発表された。私は2017年にはこの貴重な作業を知り、本にまとめるべきと思って知り合いの出版社に持ち込んだが出版は実現しなかった。そんな因縁もあり、今回の本書の刊行は実に喜ばしい。

 戦争を知るための史料はさまざまあるが、検閲は受けるものの「リアルタイムで書かれ」、「兵士の生の声が綴られた手紙」は極めて貴重だ。

 ただ、現物は崩し字が多く、素人には読めない。また、その内容が意味するものは、適切な解説がないと理解できない。
 本書では、膨大な軍事郵便がわかりやすく整理され、当時の政治・経済的背景、軍の構造と戦争の経緯、農村の人間関係などが適宜解説で織り込まれ、歴史家の眼で分析されている。
 読み物としてもおもしろいが、とくに日本近代の戦争に関心のある方や歴史教育に携わる方にはぜひお薦めしたい。

 以下は、私が印象に残ったところ。

 ついこの間まで農民だった者が、どのようにして「兵士」となっていくのかが興味深い。本書は、その仕掛けの一つが国民挙げての「見送り」にあったという。

 出征にあたっての見送り風景を感激とともに軍事郵便に書き送った兵士は多い。
 兵士たちは、村を出るときはもちろん、出発した鉄道の駅や沿線で熱狂的な見送りを受けた。ある兵士は沿線の様子をこう書いた。

田を耕す者や車を引くもの、茶を摘んでいる女から麦刈る老婆に至るまで、列車の進行を見つけた時は転んだり起きたりしながら駆けつけ来たり。慈母の懐にいる幼い子どもまで、双手を挙げて万歳を唱え候、甚だしきは地に伏して両手を合せおるなど思はず粟肌の感に打たれ候。

 これは兵士を載せて走る列車に向けての民衆の行動である。駅に着いたときの歓迎ぶりはさらにすさまじい。
学校生徒は申すに及ばず各停車場は立針の位置もこれ無き程にて、その厚遇とても筆紙に尽くすあたわざるところにて、麦茶御守または手拭いハガキなど数多く贈与せられ、(略)貴婦人令嬢が兵士らの汗に汚れし手拭いまで洗いくれる。また、何市長何大尉などの高等官まで一同脱帽にて敬礼至されおり候には実に感極まってひそかに涙を流し候。
 見送りは「なぜ自分たちは戦場に向かうのかの疑問すら氷解させるほどの」感情を沸きあがらせ、「国家と自己を同一化させるに十分な装置だった」と桂木さん。
 実際、見送りに感激するあまり《身は戦地に参り落命するとも名残はこれなきと思い候》、つまり、このまま戦場で死んでも全然名残惜しくありません!と決意をあらたにする兵士もいた。

 桂木さんは「こうした出征と見送り風景が何度も繰り返されたのは、逐次兵力を投入せざるを得なかったことによる」とし、日露戦争が苦戦続きだったことを指摘する。
 かっこよく勝った戦争ではないのである。
 例えば有名な旅順要塞の戦闘は、陥落までの投入兵力13万名に対して約半数の6万名が死傷という惨憺たる結果だった。

 旅順陥落に必須とされた203高地の戦闘で同郷人が戦死したことを伝える手紙がある。
死屍(しし)積んで山をなしという形容詞も、ここに於いてはその通りと申し候。いやそれより死屍累々山をおおふに至りと申し候。(略)宮坂君は右耳より左耳に貫通銃創、今井氏は下腹部貫通銃創にて遂に瞑(めい)せられ候。
 当時の検閲はまだ緩かったのか、犠牲の多さ、苦戦ぶりがおどろくほど率直に書かれている。

 203高地奪取後も《大激戦》が続いた。それをうかがわせる手紙も。
我が小隊の如きは真っ先に突進、小隊長殿死し続けて死傷者続出、十七名となる運命。我が分隊の如きは、先に分隊長負傷、今井勝重君死、残るは僕と外一名。(略)他の多くの同郷の戦友を失ひ、実に無念。(略)僕もこれが終わりとの心得に候。
 悲惨な戦場だ。分隊で《残るは僕と外一名》とあるが、分隊はふつう10人近くで構成されるはずだから、苦戦のほどが想像できる。《僕もこれが終わり》と思って当然だ。

 意外だったのが、脚気(かっけ)の蔓延だ。脚気でほとんど戦闘に参加せずに除隊になって《誠に面目なき次第》と書き送った兵士の手紙がある。

 日清、日露の戦争では、日本陸軍脚気罹患率はきわめて高かったという。
 日露戦争での戦病死3万7200余人中、脚気による死亡者は2万7800余人にのぼった。戦病死の4人に3人は脚気で死亡したのだ。
 脚気ビタミンB1不足で起きるとはまだ分かっていなかったが、海軍では麦飯で予防できることを確認して食事に取り入れられていた。一方、陸軍では森林太郎森鴎外)らが細菌説に固執して海軍の実践を無視し続け、被害が拡大したという。 
 後の陸軍、海軍の体質を示唆するようなエピソードだ。

 桂木さんによれば、県(あがた)村出身者も少なくとも8人が脚気に罹患し、後送されている。
 兵站を軽視する日本軍の体質は当時からで、戦地での装備や待遇は劣悪そのもの。病気も蔓延するなか、無謀な作戦に投入された兵士はまさに「使い捨て」だったように見える。

 読了してあらためて気づかされたのは、そもそもの日露戦争の目的が韓国支配にあったことだ。ロシアの不正を糾し、自衛のために仕方なく戦争に踏み切ると国内外に説明したはずが、真の狙いは朝鮮半島にあった

 戦後の講和で結ばれた「ポーツマス条約」第二条には、
露西亜帝国政府は、日本国が韓国に於いて政事上、軍事上および経済上の卓絶なる利益を有することを承認し、日本帝国政府が韓国に於いて必要と認むる指導、保護および監理(監督し取り締まること)の措置を執るにあたり、これを疎礙(そが=さまたげる)しまたは干渉せざることを約す。」とある。

 国民の多くは、賠償金が得られず、思うような領土が獲得できなかったことに対する暴動まで起こして講和に反対したが、日本政府としては満足する内容だったのだ。

 兵士らの軍事郵便にもこれを反映した内容が記されている。
当韓国も今や我が忠厚(誠実で情に厚いこと)なる政府の配下に属し、山河草木ことごとく昭光(輝く光)に浴し、ために当地の如き無智の民が緩やかに居住致し(略)》
 兵士にも韓国人を《無智の民》と見下す心情が育っている。
 いま問題になっているコリアンへのヘイト言動の奥深い根っこはここにあると言えるのではないか。

 司馬遼太郎の影響もあって、日本という国は明治までは良かったし、日露戦争は、弱いものいじめではなく、小国日本が大国ロシアと戦い、奇跡の大逆転で勝った快事だというイメージがなんとなくある。日本が「悪く」なるのは満州事変からであると。

 しかし、朝鮮半島の人々の視点からは、日清も日露も韓国をめぐる戦争であり、1905年のポーツマス条約から1910年の「日韓併合」へは直結していると見えるはずだ。

 日露戦争は日本の針路に決定的な方向付けを与えたわけで、あの戦争の歴史上の位置づけをもう一度勉強し直したいと思った。

 なお、日露戦争時の軍事郵便を扱った先行する研究に、本大江志乃夫『兵士たちの日露戦争~500通の軍事郵便から』 (朝日選書、1988年)がある。こちらは福井県の農村に遺された軍事郵便を分析したもの。
 読んでみると、さすがに大御所の本だけあって、多くの史料を用いて見事に日露戦争の姿を浮かび上がらせている。ただ、軍事郵便自体の中身は本書『軍事郵便は語る』の方が生々しく興味深い。
 手紙は誰に出すかで内容が違ってくる。それほど親しくない相手では、建前ばかりのよそよそしいことを書くことになる。その点、本書の手紙には「本音」が吐露されている箇所が随所に見られ、当時の書き手の心情により接近することができる。

 ところで、軍事郵便はいまちょっとした注目を集めている。 

 2018年8月、「軍事郵便」をテーマにしたNHKスぺシャル「届かなかった手紙~時をこえた郵便配達」が放送された。

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 太平洋戦争中には年間4億通ともいわれる膨大な軍事郵便が行き交ったというが、一部は米軍や豪軍に押収され、届かなかったものがある。近年、手紙を押収した米兵や豪兵が亡くなり、インターネット・オークションで売りに出されるなどして“未配達の手紙”が国内外で次々と見つかっているという。

 兵士や一般の国民がそれぞれの戦争をどう見ていたのかを知るためにも、軍事郵便の収集、保存、分析が期待される。