東京都写真美術館で、『SAWADA 青森からベトナムへ ピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死』(五十嵐匠監督)という映画を観てきた。
若い人は沢田の名前を聞いても知らないだろうが、日本を代表する世界的な戦場カメラマン(本人はこう呼ばれるのを嫌がったそうだが)で、インドシナの戦乱を最前線で取材し、1970年10月28日にカンボジアで銃撃され亡くなった。34歳という若さだった。
(沢田教一については以前ブログで書いた)
今回は、没後50年企画で「24年振りに35mmフィルムでの貴重な上映」だそうだ。
この映画製作には以前私が所属していた「日本電波ニュース社」も協力しており、監督の五十嵐さんとは、映画制作の前に会社にいらしたときにお会いした記憶がある。
映画は四半世紀前に観ているはずなのだが、すっかり記憶が飛んでいて初見も同様、新鮮だった。
沢田をよく知る多くのジャーナリストに取材して思い出を語らせており、歴史的にも貴重な記録になっている。映画製作でこれが一番大変だったと五十嵐監督が語っている。
「取材の時点で、沢田さんが亡くなって20年以上が経っていたんですけど、みんなまだ現役バリバリのジャーナリストで活躍していた。当時はメールもSNSもない。通信手段はファックス、電話、手紙で打診するしかない。でも、世界中を飛び回っているからつかまらない、つかまらない。
その上、こちらの主旨がなかなか本人まで届かず、取り合ってもらえなかったり、電話しても居留守使われたり(苦笑)。」
https://news.yahoo.co.jp/byline/mizukamikenji/20201104-00206232/UPI
沢田教一は、UPIプノンペン支局長フランク・フロッシュとともに危険とされる国道2号線へと向かい、プノンペンの南約34キロ地点で何者かに襲撃され死亡した。
映画の最後の方に伝説の女性ジャーナリストで当時UPIの同僚だった、ケイト・ウェブ(Kate Webb)が登場した。ベトナム戦争で初の女性ジャーナリストで、紅一点で注目されたことだろう。写真で見ると凛々しく美しい。大酒飲みでヘビースモーカーでも知られていたらしいが。
沢田は無謀だったから死んだと評する別のジャーナリストに反論するように、タバコを手に、彼が不注意だったなんていえない、何が起きるか分からないのが戦場だと語っていた。考え考え、特別な思い入れをもった話しぶりが印象に残る。
ケイト・ウェブは、ニュージランド生まれオーストラリア国籍のジャーナリストで、インドシナのあとは湾岸戦争、東チモール、アフガン、香港返還など数々の大きなニュースの現場に立った。
彼女に憧れてジャーナリズムの世界に入った女性は多い。
フィリピンの2月革命(1986年)を取材したというから、当時、私もどこかですれ違っていたかもしれない。
ケイト・ウェブを一躍有名にしたのが、沢田が殺された半年後、1971年4月にプノンペン郊外で武装勢力に捕らわれ、絶望視されながら、23日後に姿を現した事件だった。ニューヨークタイムズは死亡記事を載せたほどだった。一緒に捕まったのが日本電波ニュース社の鈴木利一さんで、私のかつての上司にあたる。
私が鈴木さんから聞いた話では、彼らを捕えたのはカンボジア解放勢力(のちにポルポト派と呼ばれることになる)の兵士で、そのままなら殺されるところだったが、その地区に共同作戦のために展開していた北ベトナム軍が介入して解放されたという事情だったと記憶している。
ケイト・ウェブは2007年に亡くなっている。彼女のWikipediaでは「北ベトナム軍に捕らえられた」ことになっているが、こんど彼女の本「On the other side- 23 days with the Viet Cong」(このタイトルでは捕まえたのが「ベトコン」になっているが)を読んでみよう。
映画を観ながら、戦場にあったさまざまな青春を想像し、戦争取材の意味を考えさせられた。
映画は15日(日)まで。
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同じ写真美術館の3階で、沖縄の写真家の「琉球弧」という写真展を観た。
米軍、基地、ネオン街なども被写体になっているが、写真が暗くない。地に根を張ったたくましい生活を感じる。
http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3838.ht
沖縄の写真は明日も紹介します。