叙勲されていた沢田教一

 また暑さがぶり返している。
 先日、沢田教一の写真展(28日まで)に行ってきた。

 ベトナム戦争を写し、ピュリツァー賞など数々の賞を受けた故沢田教一さんの写真展「写真家 沢田教一展――その視線の先に」(朝日新聞社主催)が16日、日本橋高島屋(東京都中央区)で開幕した。
 会場には、ベトナムの古都フエでの市街戦など戦争の悲劇をはじめ、妻のサタさん(92)や故郷の青森を写した約150点の写真とともにカメラなどの遺品約30点も展示されている。

 沢田さんは、必死の形相で川を渡る家族を捉えた「安全への逃避」(1965年)でピュリツァー賞世界報道写真大賞を受賞した。当時2歳で母親に抱かれて写真に写ったグエン・ティ・フエさん(54)も今回、初来日し、開会式に同席した。(略)》朝日新聞
 はじめの経歴のコーナー。おお、誕生日が私と同じ2月22日ではないか。いろいろ面白いエピソードがある。小学校(国民学校初等科)と高校で寺山修司と同級だったなんて、当時を想像するとおかしい。どんなことをしゃべっていたのか。
 沢田は無口だが、茶目っ気の多い人だったようだ。1955年の12月24日クリスマスイブに、6歳年上のサタさんにプロポーズしたのは電報でだった。「セキイレタ マイオクサン キョウイチ」。沢田は19歳の若さだった。
 サタさんは写真展開催にあたり「苛酷な戦場に、沢田が愛する故郷・青森の姿を重ね合せていたという事実」を多くの人に知ってほしいという。沢田の写真からは、被写体への共感がにじみ出てくると言われるが、9歳で遭遇した青森大空襲(1945年7月28日、62機のB29が襲来し1000人超の死者と、東北地方最大の被害を出した)や貧しかった幼少期の思い出が心に焼き付いているからだという解釈が書いてあった。なるほど。今回展示された故郷の写真は、労働する人々を多く被写体にしており、ベトナムの庶民へのどことなく暖かい目線に通じるものがあるように思えた。
 沢田は報道写真家として、とてもラッキーなスタートを切っている。61年、一旗揚げようとあてもなく上京するが、三沢基地で親しくなった米軍将校の紹介でUPIに就職。65年、2カ月休暇をとってベトナムに滞在すると、プレイク攻撃という大戦闘が勃発、アメリカが北爆を開始して戦争はベトナム全土に広がる。まさにベトナム戦争の大きな転機に居合わせたのだ。
 沢田はその年の7月にUPIサイゴン支局に赴任し、直後の9月6日に、あの「安全への逃避」を撮影。翌年、ピュリッツァー賞に輝いた。とんとん拍子である。
 沢田は、ベトナム戦争の「一等地」と言われる戦場にことごとく姿を現した。戦場写真でスクープを撮るには、どの部隊の作戦に従軍するかが成否を握るが、UPIという世界有数の通信社のネットワークだけでなく、フリーメイソンのブラザーたちからの情報収集も大きなカギを握っていたという。フリーメイソンには、三沢の米軍基地内の写真店で働いていたときサタさんのすすめで加入したそうだ。
 一気に報道写真で名をとどろかせ、世界報道写真展大賞、USカメラ賞、ロバート・キャパ賞(死後)など代表的な賞を総なめにした。68年のテト攻勢でのフエ市街戦の写真を見ると、射撃中の兵士を前方から撮影したショットがあり、よくまあ、こんな危ない取材をしたものだと感心する。不死身と言われた沢田だが、1970年、34歳のとき、カンボジアポルポト派に銃撃されて死亡した。
 サタさんによると、沢田は血なまぐさい現場の撮影は好きではなく、戦争カメラマンと呼ばれることを嫌った。そして、ナショナル・ジオグラフィック誌への転職を希望していたという。ピュリッツアー賞受賞のあと、沢田は、写真におさめた2家族を訪ね、賞金の一部をプレゼントした。このエピソードは、他人の不幸で飯を食っていることへの贖罪だったのだろうか。
 同じくベトナム戦争を撮った写真家、石川文洋さんは、沢田より1年前の1964年にベトナムに行っている。石川さんはこの写真展に大要、以下のような言葉を寄せていた。
 《64年の東京オリンピックを機に、経済は上げ潮で、テレビが普及しはじめ、週刊誌売り上げもうなぎのぼり。マーケットが、需要があった。取材すれば発表する場所があった。
 今、戦争写真についてはメディアに「受け入れ態勢」がない。戦争を扱わないから報道がぶつ切りになる。読者が望まないから扱わないのか、扱わないから読者が離れるのか。
 世界に対するハングリー精神が育っていかないのは、少し危惧している。
 我々の使命はリアルタイムに物事を伝えていくこと、そしてその国の歴史を記録していくこと。それを次世代に伝えていくことだ。》

 ひとつ驚いたことがある。沢田には死後、勲六等単光旭日章が贈られていた。それも直後に贈られている。
 《緊急に勲章を授与する場合について、「次の各号の一に該当する者に対しては、その功績の内容等を勘案し相当の旭日章を緊急に授与する」と定める。「次の各号」とは、以下の通り。
1.風水害、震火災その他非常災害に際し、身命の危険を冒して、被害の拡大防止、救援又は復旧に努め、顕著な功績を挙げた者
2.身命の危険を冒して、現行犯人の逮捕等犯罪の予防又は鎮圧に顕著な功績を挙げた者
3.生命の危険を伴う公共の業務に従事し、その職に殉じた者
4.その他特に顕著な功績を挙げて、緊急に勲章を授与することを必要とする者》

 ほう、そうすると当時は、戦場カメラマンは、災害で殉職した消防隊員などと同じく生命を賭して働く、勲章を授与するのにあたいする職業にみなされていたのか。日本政府は、3年前、シリアで後藤健二さんらを見殺しにし、いまも拘束されている安田純平さんの救出に動こうとしない。危険地に赴くジャーナリストが白眼視され、自己責任論かまびすしい近年の風潮から見ると沢田の叙勲には感慨を禁じ得ない。