安全への逃避

 激しい雨が降った。
 夕方、涼しい風が吹いて喜んでいたら、草むらでチ、チ、チと虫が鳴いている。確実に秋に向かっているのだなあ。もう9月か。
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 ベトナム(第二次インドシナ)戦争では、日本人のカメラマンや記者が戦場で大活躍した。
 64年のトンキン湾事件で、アメリカが本格介入すると、岡村昭彦が『ライフ』誌などで活躍、65年にはいわゆるベトコン(南ベトナム解放民族戦線)支配区に潜入取材して注目された。そのころ岡村の他に現地にいた日本人は、開高健、秋元啓一、石川文洋など。

 ついで、沢田教一が1965年に戦火を逃れる家族を撮った「安全への逃避」(Flee to Safety)が世界報道写真展グランプリ、アメリカ海外記者クラブ賞、ピュリツアー賞を総なめにした。(写真)
 こうした活躍で、「日本人カメラマンは優秀だ」と評価され、通信社もどんどん日本人をベトナムに投入する。
 当事国のアメリカは大量の従軍記者・カメラマンを送り込み、米軍は戦場取材の便宜を最大限与えた。ベトナムは世界的関心事だったから、報道への需要は巨大だった。
 そこには新聞、雑誌、ラジオ、テレビすべてのメディアが勢ぞろいし、さらには多くのフリーの若者も名声と地位、金をもとめてやってきた。
ベトナムで65年から75年までフィルムカメラを回し、サイゴン陥落を見届けた日本人カメラマンに沖縄出身の平敷安常(ひらしきやすつね)がいる。最初のベトナム行きは大阪「毎日放送」のカメラマンとしてだったが、ベトナムに取り付かれ、退社して単身ベトナムにわたる。アメリカABCのスタッフカメラマンとしてニュースを取り続けた。

 カミカゼ・トニー」というあだ名をもつ勇敢なカメラマンだったという。
 彼が書いた『キャパになれなかったカメラマン』は09年「第40回大宅壮一ノンフィクション賞」に輝いた傑作だが、これは壮大な、ベトナム戦争を取材したジャーナリスト列伝だ。多士済々、実に個性的な各国のジャーナリストたちが数十人登場する。
 この続篇の『サイゴン・ハートブレーク・ホテル』は日本人記者に多くのページを割いている。この二つは、戦場ジャーナリストとは何者かを知るに格好の本だ。
 夢と冒険、競争と友情、仲間たちの負傷と死・・ジャーナリストたちの濃密なコミュニティが生き生きと描かれている。
 フリーのフォトカメラマンは戦場に行っては通信社を回り、ネガ1枚25ドルで売るところからスタートする。ライフ誌などの一流誌に掲載されれば収入ははねあがり、1社だけと専属契約する「ストリンガー」に昇格、さらには大手メディアに正社員として迎えられるチャンスもあった。
 無名の駆け出し記者は、偉い先輩記者が敬遠する最前線に行き、特ダネをとって署名入りの記事を書かせてもらい、大新聞の特派員への道も開けた。「アメリカ本国では何年もかかってたどり着く地位と名声が、ベトナム戦争の現場ではきわめて短い時間のうちに獲得できる」のだった。
 「それぞれが目的を定め、それが実現しそうな可能性が与えられる、それがベトナムの戦場だった。ベトナムの戦場は最高のジャーナリズム・スクールだった。だが、この教室には絶えず危険がともなっていたのも事実だった。失敗や不注意は悲劇を招き、不運は直接死に繋がることが多かった。戦争は、将軍とジャーナリストを出世させると、皮肉まじりに言われるが、ある意味では真実だったかもしれない。」(『キャパに・・』上P95)
 アフガン、イラク、シリアと戦場取材には陰惨なイメージがつきまとうが、平敷が描くベトナム戦場ジャーナリストの世界は、たくさんのチャンスがころがっている自由競争の空間だ。ここでフリーランスが、でかい「一発」を狙うのは当然だった。
 では、日本人たちはどうだったのか。
(つづく)