明らかにされなかった事実はないと同じ

説明を尽くす純平せぬさつき 
 一昨日の朝日川柳に選ばれた一句(東京都 三井正夫)。もちろん安田純平片山さつきを対比したものだが、安田さんは今も連日取材に応じて拘束時の様子を語り続けている。25日、成田空港で妻が代読した「可能な限りの説明をする責任があると思っています。折を見て対応させて頂きます」という自身の帰国最初のメッセージを実行しているのだ。

 きょう、第一回「本屋大賞2018年ノンフィクション本大賞」の発表があり、大賞に角幡唯介の『極夜行』(文藝春秋)が選ばれた。角幡さんは以前から注目している冒険家・作家だが、受賞のスピーチで、安田さんバッシングにかかわる本質的な論点に触れていた。
 「今は何かを知るということに対しての錯覚というか、価値が置き去りにされてきている気がします。ネットを開いて、検索すればそれなりの答えが返ってきますが、情報や事実っていうのは、ものすごく労力がかかっている。ネットは結果でしかないので、その情報を手に入れるために、リスクや労力がかかるんだということへの想像力がなくなっている気がします」。
 「安田(純平)さんがシリアで解放されて、自己責任論ということで糾弾されています。『危険を冒してまで、事実を調べにいく必要ないんじゃないの。普通に生活できたら困らないじゃん』という感覚になっていると思うんですけど、それだと困る。明らかにされなかった事実はないと同じですから」。
 「発掘されなくて死んでしまう人がたくさん世界にいる。誰かがリスクを冒して、事実を発掘しないと暗黒世界になってしまう。ノンフィクションは、何かを知るっていうのはどういうことなのかを改めて世に問うことだと思う」。
 何度も死にかかった経験をしてきた彼だけに、説得力が違う。


 バッシングについて語るのはもうおしまいにしたいが、関心のある方にお勧めは、安田さんの高校の同窓でもある石川智也さん(朝日新聞記者)の一連の評論。最新は『そして安田純平さんは謝った〜誰に対し何を謝ったのか。それはこの国で生きていくための、やむを得ない護身策だった』
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2018110600007.html

 また、同姓であることで関心をもち、安田純平とは何者かというイロハから調べあげたライターの安田峰俊さんの『安田純平氏へのバッシング、いちジャーナリストとして思うこと』もおもしろい。とてもまっとうな批評だと思う。最後の身代金についての叙述には賛成しないが。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58267

 バッシングを批判する論者の中に、これが異質なものを排除する日本の古いムラ社会の病理だとする人が散見されるが、私はそうは思わない。
 日本人ジャーナリストの戦争取材は、ベトナム戦争に始まる。(大東亜戦争でのプロパガンダ報道はジャーナリズムとは呼べない)
 一ノ瀬泰造はじめ多くの若者がカメラとザック一つでベトナムに飛んだ。その中から沢田教一、酒井淑夫らピュリッツアー賞に輝いたカメラマンも輩出した。今と違うのは、大手メディア企業もたくさんの記者、カメラマンを戦場取材に投入したことだ。ベトナムインドシナ)戦争では、15人の日本人ジャーナリストが戦闘に巻き込まれたり、ポルポト派に処刑されたりして命を落としているが、その中には共同通信、フジテレビ、読売新聞など大手メディアの社員もいる。
 当時は、ジャーナリストが戦争を取材するのは当たり前の話で、自分も行かせてくれと手を挙げたものだとベトナム取材経験者に聞いた。戦場を取材しにいくことが咎められることなどなかったのである。
 私は今のバッシングの風潮は、日本の「昔」ではなく「今」の特徴だと考えている。これについてはまた機会があれば書こう。