プノンペン陥落から45年、「キリング・フィールド」を観る

 政府・与党は、検察庁法改正案の今国会での成立を断念し、継続審議とすることを決めた。
 安倍内閣が急いで強行採決しようとしていたのを、およそ1週間で予定変更させたわけである。
 先日の元検察官14人の抗議に続き、きのう18日、熊﨑勝彦氏ら東京地検特捜部長経験者や横田尤孝(ともゆき)・元最高裁判事を含む元検察官、計38人が、「検察の独立性・政治的中立性と検察に対する国民の信頼が損なわれかねない」として、政府に再考を求める連名の意見書を森雅子法相あてに提出した。
 こうしたいわば身内からの抗議やツイッターデモなども効いたのだろうし、また内閣支持率が大きく下がっていることも大きい。

 朝日新聞社が16、17両日に実施した世論調査によると、安倍内閣の支持率は33%で、4月調査の41%から下落した。「激減」と言ってもいいほどの下がりようだ。
 不支持率は47%で、4月調査の41%から上昇した。
 2012年12月発足の第2次政権以降で、内閣支持率が最低だったのは森友・加計問題への批判が高まった18年3月と4月調査の31%で、今回の33%はそれに次いで低い。
 同調査では、検察庁法改正案について、「賛成」は15%にとどまり、「反対」が64%だった。新型コロナウイルスの感染拡大の防止に向け、安倍首相が指導力を「発揮している」と答えた人は30%(4月調査は33%)で、「発揮していない」の57%(同57%)の方が多かった。やることなすこと、国民にそっぽを向かれている。

 去年の英語民間試験導入やコロナ禍での給付金問題など、安倍内閣が予定の変更を余儀なくされるケースが続く。

 検察庁法改正は、次の国会で通すと言っているので引き続き要注意だが、声を大きく上げれば政治を動かせるという学習効果に今後期待したい。
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 テレビの映画放送が多い。
 NHKBSで映画「キリングフィールド」(1984年)を観た。

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プラン役を演じたハイン・ニョールはアカデミー賞助演男優賞をもらった

 1975年4月のプノンペン陥落までカンボジアで取材していたニューヨークタイムズのシャンバーグ記者の体験を映画化したもので、たぶん過去2回は観ているだろう。

 クメールルージュ(ポルポト派)によるプノンペン入城の際、シャンバーグは現地助手のプランを国外脱出させることに失敗。のこされたプランは、集団農場で恐怖支配と強制労働を体験、そこから逃避行を敢行し、九死に一生を得てタイ国境の難民キャンプにたどり着き、迎えにきたシャンバーグに会う、という話が描かれている。

 私は土地勘があるので、リアリティがいま一つという場面がいくつかあるが、1975年のインドシナ三国の解放戦争勝利は、私の人生を分岐点の一つになった記念すべき出来事であり、この映画は何度観ても感慨深い。

 ベトナムラオスカンボジア三国で「解放側」が勝利したのは45年前、私は大学在学中だった。私はこれに大いに感動して、ベトナム研究にのめり込み、大学院に進むことにした。単純なやつだなと笑われるだろうが。

 その後、アカデミズムではなくテレビ屋になってこの地域を取材することになった。

  「社会主義の理想」が最終的に潰えたのがベルリンの壁崩壊からの東欧共産圏とソ連体制崩壊だったとすれば、1975年のインドシナ三国の解放闘争勝利の後の目を背けたくなるような惨状はそのプレリュードとして、とくに私を含むアジアの若者にとっては大きな衝撃だった。

 歴史にもまれな大虐殺、同士討ちともいえる社会主義国間の戦争、あふれ出る大量の難民・・・アメリカ帝国主義との闘争に打ち勝った民族独立と社会主義大義はどこに行ってしまったのか、と。

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 1975年4月、クメールルージュがカンボジアを「解放」したあとは、首都プノンペンの全住民を地方に移動させるなど、中でかなり異様な政策が採られているらしいという以外、情報がほとんど出てこなくなった。

 1977年の秋、私はベトナム戦争後初めての直行便で、私はホーチミン市と名前を変えたサイゴンに行った。

 町を歩いていると、若者がすうっと寄ってきて、英語で話しかけてきた。
 「いま、カンボジアと戦闘が起きているのを知っていますか」。まさか。
 「連日、軍のトラックが国境から負傷兵を載せてきます」。
 そういうと、あたりを見回し、呆然とする私を残して急ぎ足で去っていった。

 ベトナム労働党共産党)とカンボジア共産党(クメールルージュ)はもとは一緒のインドシナ共産党で、いわば盟友の関係だったはずなので、信じられなかった。

 その後、カンボジアで大量虐殺が行われているとの情報が、命からがら国境を越えてタイに逃げてきた難民たちから寄せられるようになった。

 日本ではその真偽をめぐって論争が巻き起こった。
 カンボジア通と言われる専門家や現地に長く住んだ人たちに虐殺否定派が多かった覚えがある。「おとなしい仏教徒カンボジア人が、見境なく人殺しをするなんて」というのだった。
 また、左翼の一部でも、戦争に反対し民衆の立場に立つ勢力が政権についた国で虐殺などありえないと虐殺否定派が優勢だった。

 その論争を収めた『虐殺と報道』(すずさわ書店、1980年)に、カンボジアを取材したカメラマン石川文洋氏は「同胞を百万人以上も殺してしまうという、きわめて悪質な大虐殺がポル・ポト政権下のカンボジアで起こったことは事実であると信じています」としてこう書いている。
 「もし、大虐殺がなかったことが明らかにされた場合、私は現場へ行きながら、事実を見誤った責任をとって今後、報道にたずさわる仕事をやめる覚悟でいます」。
 石川さん、クビをかけるというのだ。この論争がいかに激烈なものだったか、また、当時のジャーナリストたちがいかに「熱かった」かをしのばせる。

 カンボジアを取材していた少なくないジャーナリストが、クメールルージュに捕まって処刑された。
 そのなかには、カメラマンの一ノ瀬泰三氏(『地雷を踏んだらサヨウナラ』の)やフジテレビの記者、日下陽氏、カメラの高木裕二郎氏など日本人もいる。

 内戦中から、「ベトナムカンボジアのゲリラは違う」ということは外国人記者にも次第に知られるようになっていた。
 ベトナムでは「ベトコン」に捕まった記者が丁重に扱われたすえに解放され、拘束中の経験を特ダネ手記にしたケースがあった。その後、それなら私もと、ベトコンに捕まろうとするジャーナリストまで出た。一方、カンボジアのクメールルージュに捕えられた外国人ジャーナリストは帰ってこなかった。

 例外のケースが一つある。

 私の元上司だった日本電波ニュース社の鈴木利一氏は、1971年4月、UPIプノンペン支局長、ウェブ・ケイト氏(ニュージーランド出身)とともにプノンペン近郊でゲリラ兵に拘束された。死亡したとの憶測が流れ、ケイト氏の家族は葬儀まで執り行っていたが、23日後突然解放された。
 実はその地域は北ベトナム軍との共同作戦区域で、クメールルージュが殺そうとするのをベトナム側が抑えたのだった。
 
 90年代半ば、本格的な虐殺検証番組をやることになり、私はカンボジアで改めて取材し、独自にクメールルージュのオリジナルの文書を入手したうえで、米国のエール大学で、当時クメールルージュによる虐殺研究の第一人者、ベン・キアナン教授にインタビューした。
 犠牲者の数を彼がおよそ170万人と推定したと記憶している。その推定の根拠が合理的で、私の現地取材の印象にも合致していたので、番組ではその数を採用した。
 「解放」時のカンボジアの人口が750万人くらいだったから、2割を超える人々が亡くなったことになる。

 当時のクメールルージュの罪を裁く法廷が2年前開かれた。
https://www.bbc.com/japanese/46231709
 《カンボジアポル・ポト元首相が1970年代に率いた政治勢力クメール・ルージュ」政権の高官2人に(11月)16日、大量虐殺の罪で有罪判決が下った。大量虐殺で有罪判決が下るのは今回が初めて。

 判決が下ったのは、ポルポト政権で人民代表議会常任委員会議長(国会議長)を務め、序列第2位だったヌオン・チア被告(92)と、同政権で元首職にあたる国家幹部会議長だったキュー・サムファン被告(87)。

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左がキューサムファン。右がヌオン・チア(去年死亡)

 2被告は、国連が支援する法廷で、イスラム系民族のチャム族とヴェトナム系民族に対する大量虐殺の罪で裁判にかけられた。

 今回の有罪判決は、クメール・ルージュ政権が実行したのが実際に大量虐殺であったとの、国際法の下で初の認可となる。

 カンボジアでは1975年から1979年の間、短命だったが残忍だったクメール・ルージュ政権の下、最大で200万人の死者が出たと考えられている。

 死者の多くは飢餓や過度の労働に倒れたか、もしくは国家の敵として処刑された。

 BBCのジョナサン・ヘッド東南アジア特派員によると、クメール・ルージュ政権によるカンボジア国民の殺害は国際的な大量虐殺の定義に当てはまらないため、これまで政府高官らは人道に対する罪で訴追されてきたという。(略)

 権力を握り暴力的な支配を行った4年間で、クメール・ルージュは自分たちの敵と認識した対象を全て拷問し、殺害した。その対象は知識人や少数民族、前政権の当局者、そしてこうした人々の家族にまで及んだ。(略)

 同法廷は2006年、クメール・ルージュ政権の残虐行為について指導者や責任者を裁くことを目的に設置された。カンボジア人と世界各国の裁判官が判決を下す。これまでにかかった運営費用は約3億ドル(約340億円)とされるが、有罪判決が出たのは現在までに3人だけとなっている。

 2010年、同法廷はドッチの別名でも知られるカイン・ゲク・イウ被告に有罪判決を下した。拷問室と監獄の複合施設として悪名高い、プノンペンのトゥール・スレン政治犯収容所の所長だった。

 クメール・ルージュ政権の外相だったイエン・サリ被告もキュー・サムファン被告およびヌオン・チア被告と同じ裁判で、2つの案件に関する審理にかけられていたが、2014年に最初の案件の第1審判決が出る前に死亡している。イエン・サリ被告の妻でクメール・ルージュ政権の社会問題相だったイエン・チリト被告もこの裁判にかけられていたが、公判に立てる精神的状態ではないと判断され釈放が命じられた。イエン・チリト被告は2015年に死去した。(略)》
 
 私が取材した限りでも、あのポルポト政権下で起きたことは筆舌に尽くしがたい。虐殺現場では衣類が散らばり、ここそこに地面の黒ずんだところがある。死体の油が地表に染み出しているのだ。土の中から出ている骨や髪の毛を踏みつけながらカメラを回した。
 ポルポト政権下のカンボジアは、普通の独裁ではなく、ナチズムやスターリニズムのような「全体主義」だったのだろう。

 そのクメールルージュを中国が全面支援したことが、その後の二つの戦争(ベトナムカンボジア侵攻と中国のベトナム侵攻)を招くことになる。
 だから、中国はカンボジアの虐殺と二つの戦争の犠牲に対して責任がある。
 私の中国に対する警戒意識の原点でもある。