日比谷図書館に資料を探しにいく。昼どきの日比谷公園には、紅葉を楽しむ人の姿があった。松本楼の大銀杏が、美しく色づいていた。こんな都心で季節を楽しめるとは。こんどオフィスの近くで「秋」を探して、弁当を広げるか。
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ジン・ネットは11月が決算月。いま計算中だが、今年度の売り上げは前年比激減の見込み。きょうも明日も、うちに融資している(お金を貸している)金融機関を訪問、返済条件の交渉が続く。この月末の資金繰りは実に厳しく、手立てを思案中だ。
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勝谷誠彦(かつや・まさひこ)さんが、今朝未明に肝不全で亡くなった。57歳。テレビのコメンテーターなどで活躍し、去年は兵庫県知事選にも立候補していた。8月下旬から入院していたことを知らず、元気でいるとばかり思っていたから、驚いた。
私が初めて会ったのは1986年だから30年の付き合いになる。「2月革命」直後のフィリピンで、勝谷さんは当時、文春の社員。私がその年初に開設した日本電波ニュース社のマニラ支局に、フリーのライターだった加藤博さん(現在は北朝鮮難民救援基金理事長)が、勝谷さんを連れて来たと記憶する。その後、勝谷さんは何度かフィリピンに来て、夜一緒にネオン街で呑むこともあった。マイクを持つと意外な美声で歌を披露してくれた。
三井物産マニラ支店長、若王子さん誘拐事件では執拗な取材の末、伝説のスクープをものにした。機転がきいて度胸もある優秀な取材者だと感心した。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20150331
私の2回目のバンコク赴任のときには、自宅に遊びにきてくれ楽しい時間をすごした。バンコクには当時、橋田信介さん(私の元上司で、2004年イラクで死亡)が独立して「ニュースボックスアジア」という会社を立ち上げていた。その後、勝谷さんは橋田さんと一緒にイラク取材を行なっている。思い返すと勝谷さんとはいろんな接点があった。
次のご縁は、北朝鮮による拉致問題を海外に訴えようと、有田芳生さんが呼びかけて「意見広告7人の会」ができたとき。勝谷さんもその一人で、ネットで募金を呼びかけ、2002年と2009年に「NYタイムズ」などに意見広告を出した。http://jinken.asia./
有田さんが「思想的立場は違えども、拉致問題解決のためにニューヨーク・タイムズやル・モンドなどに掲載する意見広告運動の同志でした」」とツイッターで追悼している。https://twitter.com/aritayoshifu/status/1067546958867374081
「7人の会」の集金力はすばらしかった。
2002年、ネットで呼びかけただけでお金が集まるのか、心配していたが、ものすごい勢いで指定した口座にカンパが振り込まれ、たしか2週間ほどで目標としたNYタイムズ用の700万円を突破した。最終的には1000万円を超え、残金を拉致被害者家族会に寄付した。
2009年には総額2000万円近くが集まり、NYタイムズの他、仏ルモンド、韓国三大紙、読売新聞に意見広告を出した。
この集金力を支えた大きな柱が、勝谷さんのメルマガ読者たちだった。勝谷さんがカンパを呼びかけると、いっせいに要請に応えて振り込んでくれる。勝谷さんの影響力の大きさに驚いた。(日垣隆さんのメルマガ読者の反応もすごかった)
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090225
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20091202
ただ、近年の勝谷さんの言動にはついていけないものも多かった。メディアでは「辛口コメンテーター」などと言われているが、「辛口」というよりヘイトスピーチすれすれの表現にどきりとさせられることがよくあった。
「僕は敵が多いから、いざというときのためにボクシングを習っているんだ」と言っていた。どうやったら「受ける」かをよく知っている人なので、受け狙いもあっただろうが、どこまでが本心なのか、いつか聞いてみたいと思っていたが、それももうかなわない。
肩書はコラムニスト、写真家となっているが、活動は実にマルチで、新宿にうどん屋を出したりもしていた。いろんな意味で「突出」した人で、大いに刺激を受けたことに感謝したい。ご冥福をお祈りします。