戦場のダンサー真理子さんと再会3



 きょうは最後の金融機関訪問で新宿へ。終わってホッとした。お昼を近くの新宿御苑で食べることにする。入場券売り場は外国人が行列していた。焼きそばを買って中へ。色とりどりの落ち葉、晴れた空に映える紅葉、葉を落とした巨樹、晩秋を楽しんだ。
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《当時、サイゴンの街に一軒しかない日本料理の「京」は、旧アメリカ大使館に近い大南公司ビルの2階にあり、そこは日本人記者たちの溜まり場で、情報を交わす記者クラブの役目もしていた。日本人記者の顔を見たくなったり、日本語を話したくなったら「京」に行けば誰かに会えた。1967年から、一時期、私も同じビルの4階に住んでいた。(略)3階から上は5階までアパートになっていて、日本人記者が入れ替わりで何人も住んだ。小倉貞男(読売)、酒井辰夫(日経)、藤田博司(共同)、郡司正明(北海道新聞)、阿部汎克(毎日)、本多勝一(朝日)も短い期間滞在した》
 こう書くのは、米ABC放送サイゴン支局のTVカメラマンだった平敷安常。『キャパになれなかったカメラマン〜ベトナム戦争語り部たち』(講談社)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。その本を読んだ真理子ママは、バンコクから平敷に連絡をとった。平敷がいたそのアパートに真理子さんも住んでいたのである。
 《つい最近、珍しい人から本と手紙をいただく。同じ大南アパートの3階に住んでいたショー・ダンサーで、米軍や韓国軍の慰問ショーなどに出演するなど、ベトナムで仕事をしていた武山真理子という人からで、現在はバンコクに住む。私の前著を読んで、登場する幾人もの日本人記者やカメラマンたちを懐かしんで便りをくれた。明るい性格で、アパートの住人の記者たちにも人気があり、私も彼女の笑顔を憶えている。私のことも記憶にあったそうだ。当時のいくつかの思い出話やエピソードが書かれていた。》
 平敷のもとには真理子さんの手紙とともに彼女の半生を描いた宮崎学マリコTake Off!』(明月堂)が届いた。
 《その中で、1968年のテト攻勢で起きた出来事が書いてある箇所に惹かれた。》「テト攻勢」とは1968年のテト(旧正月)に、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線(いわゆるベトコン)が展開した大攻勢で、戦局の大きな転機となった。例年、テトの時期は暗黙の休戦となっていたこともあり、米軍や南ベトナム政府軍は不意をつかれ、サイゴンの米大使館が解放戦線の決死隊に占拠されるという重大な事態に陥った。
 テト攻勢の攻防戦を一日走り回って取材した日本人記者たちが、腹を空かせて彼女の部屋に飛び込み、何か食わしてくれと頼み込む。日経の酒井記者を先頭に、小倉(読売)、藤田(共同)らのサイゴン特派員。そして、当時PANA通信だった嶋元啓三郎の顔も見えた。戦乱の街には食事ができるレストランも、コーヒー店も開いていない。その後10日間、レストラン「京」の台所を借りて、彼女は日本人記者たちの食事係を受け持つ。おにぎりや味噌汁、保存してあった缶詰で炊き出しをして記者たちを養い続けたという。日々の報道では競い合う記者仲間だが、こんな緊急時は助け合うというエピソードが窺える。
 皮肉なことに、腹を空かした仲間たちを引き連れて、彼女に食べ物をねだったリーダー格で、日頃から皆に好かれていた酒井記者が、ここからグエンフエ通りのビルに移り、さらに別のビルに越した翌日、ロケット弾の破片で殉職する。もし引っ越さずにいればと思う。
 アパートの部屋の広さは6畳くらい。四方が牢獄のようなコンクリートの壁で、そこに窓が一つ。机とベッドがあるだけだが、トイレもシャワーもついていて、居心地は悪くない。住めば都。この大南アパートを、私はひそかに「ハートブレーク・ホテル」と名付けていた。
 彼女の本の中には、こんな話も出てくる。アパートの3階の廊下の突き当たりには、大きな冷蔵庫が置かれていて、住人だった各社の記者たちが共同で使う。冷蔵庫から冷えたビールや飲み物を出し入れする時には、記者たちが顔を合わせ、飲みながら廊下で立ち話をしたり談笑するから、うるさい時もある。同じ階の冷蔵庫に近い部屋に住む本多勝一のドアには「原稿執筆中にて、静かにされたし」という紙が貼ってあり、「うりさい!」と中から怒鳴るから、同僚たちの顰蹙を買い、「お前だけが原稿を書いているんじゃないぞ」という感じで、逆にあてつけに大騒ぎをする記者もいたそうだ。そんな中で名作『戦場の村』(1968年朝日新聞社)が生まれたのだろうか。この小さなアパートには、若かった日本人記者たちの青春ドラマがいくつもあったに違いない。
 アメリカ大使館のすぐかわたらで、時どき、解放戦線側からのロケット砲も落ちてきたりして、共同通信の藤田記者の部屋の窓ガラスが割れたりしたから、安全なアパートではなかった。だが、サイゴン市内には百パーセント安全な場所というのはどこもなかったから、単身赴任の記者たちにとっては、戦場や大事件の取材から帰って、ホッとする場所だったと思う。(略)
 ハートブレーク・ホテルこと、大南アパートの住民たちはベトナム報道で経験を積み、やがて戦争が終わると、殉職した酒井記者を除いて、それぞれ名記者となって各地で活躍を続ける》(『サイゴンハートブレーク・ホテル』P384-386)


 今のように危ない所には取材に行かせないなどという規制もなく、日本人ジャーナリストたちは、競い合いながらも助け合って精力的に取材活動を続けていた。真理子さんは、その濃密な空気をともにしていたのだった。
 こんど遊びに行くときには、そんなジャーナリスト群像の思い出話をじっくりと聞いてみたい。