朝日の朝刊にシベリア抑留の特集記事が載っていた。
抑留といえば思い出がある。サハリンや北方領土の取材をしていた1990年前後、経由地のロシア極東部のハバロフスクのホテルで、たまたま松島トモ子さんと会った。彼女の父親はシベリアに抑留されたまま消息不明になり、後に死亡したことが分かった。
《1945(昭和20)年5月、中国大陸の奉天(現瀋陽)に勤務していた商社マンの父は現地召集された。24歳の母は7月に娘を産んだ。そして8月15日、異国で敗戦を迎える。父はシベリアに抑留され、母は幼い娘を抱いて避難所に身を潜め、1年後に引き揚げる》(毎日新聞)
私が会ったのは、トモ子さんが、抑留された父親を弔うため初めてのシベリアの旅を始めるところだった。当時、私が働いていたテレビ制作会社の同僚が彼女を同行取材していた。(これがご縁で、トモ子さんは私の結婚披露パーティに紫のバラをもってお祝いに来てくれた。)
シベリア抑留に関心を持ったのはそのときからだったような気がする。
今朝の記事に、釜山在住の朴定毅(パクチョンイ)さん(93)という韓国人が取り上げられていた。1944年、就職のため向かった満州で召集され、終戦後、クラスノヤルスクの収容所に送られた。48年に帰国すると祖国は分断され、2年後には朝鮮戦争が起きる。休戦後は反共の軍事政権だったので、韓国がソ連と国交を結ぶ90年ごろまで、「シベリア帰り」とは口にできなかったという。強制的に引っ張られたのであってもロシアにいたこと自体を話せないとは・・・。知らなかったな。
《終戦時、日本軍により旧満州で動員されていた朝鮮半島出身者は約1万5千人。少なくとも3千人はシベリアに抑留され、70人前後が死亡した。(略)厚労省はこうした事態を「把握していない」という。》
抑留者の中に朝鮮人がいることは、考えてみれば当たり前なのだが、これまで意識してこなかった。自分の関心が向かないところにぽっかり穴が開いていた感じだ。反省させられた。
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天皇陛下のおことば
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
テレビニュースで、おことばの「深化」を紹介していた。
1992年、天皇は中国を訪問、翌93年、沖縄、95年には広島、長崎へと慰霊の旅を続けてきた。そして95年、「過去を顧み」、「戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い」という表現が「おことば」に入る。
2015年には「深い反省とともに、今後」が加えられた。
天皇、皇后にとって最後となる今年の「おことば」に新たに入ったのが「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」。平成が戦争のないまま終わろうとすることにも感慨があるのだろう。この30年、思慮深い天皇、皇后をもって幸運だったと思う。