終戦の逸機が大量死をまねいた

先日、高橋源一郎氏のフィリピンへの慰霊の旅「ルソン島 伯父さんは逝った」を紹介したが、その高橋氏が「死者と生きる未来」という文章を書いている
http://politas.jp/features/8/article/452
《慰霊とは、死者の視線を感じながら、過去ではなく、未来に向って、その未来を想像すること、死者と共に、その未来を作りだそうとすることなのかもしれない。》
この慰霊の旅は、高橋氏によほど強烈な印象を与えたようで、「死者と生きる未来」は、生き方そのものにかかわる深い文章になっている。
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前回、兵士の無駄死にについて触れたが、敗戦のタイミングで犠牲者の数は大きく変わったはずだ。
歴史家の加藤陽子氏(東大教授)は、亡くなった310万人同胞の犠牲が戦争の後半に集中していることに目を向け、終戦の機会を逃し続けたと指摘する。朝日新聞5日)
加藤氏によると;

最初の節目は、1943年2月のガダルカナル島からの撤退で、ここから米軍の反攻が本格化。以降、少人数で島々を守る日本軍を、制空権を握った大兵力の米軍が圧倒するパターンが確立される。日本は戦線を縮小し、9月末の御前会議で「絶対国防圏」を設定する。
次の転機は、44年7月のサイパン島の陥落。
直前のマリアナ沖海戦では、日本海軍の空母機動部隊が壊滅していた。サイパンを含むマリアナ諸島は、「絶対国防圏」のなかでも重要な拠点だった。ここが米軍の手におちれば、B29で本土を空襲される。
敗戦は時間の問題となった。
サイパン陥落の責任をとって、東条英機内閣は総辞職。次の小磯国昭内閣は7月22日に発足し、早期終戦派の米内(よない)光政海軍大臣が入閣した。制海権、制空権を失った日本は降伏してもよい状況だったが、44年後半の決戦にかけていた軍部は、フィリピンでの戦いに最後の望みをつなごうとした。
7月24日、『陸海軍爾後ノ作戦指導大綱』が裁可され、その秘匿名は「捷号作戦」とされた。
フィリピンを対象にした「捷一号作戦」は、アメリカ軍のレイテ島への進攻を受けて1944年10月18日に発動され、50万人がまともな戦闘をすることなく野たれ死にさせられたのだった。

44年9月、天皇はこう言ったとされる。
「ドイツ屈服などの機会に名誉を維持し、武装解除や戦争責任者の問題なしに和平ができないものだろうか。領土はどうでもいい」。重光葵外相のメモ)
日清戦争前の領土に戻ってもいいから終戦を考えよというのだ。
ただ、43年11月のカイロ宣言では日本の無条件降伏をめざすとされ、天皇のいう「武装解除」と「戦争責任者の追及」をクリアすることとは相容れなかった。
45年3月10日は、8万4千人が死亡した東京大空襲。東京への空襲は、敗戦までに122回にも及んだというから、早く終戦を迎えていれば、国内の爆撃による犠牲者の数も大きく抑えることができたはずだ。
敗戦後の調査では、日本人が「勝利できない」と確信した時期は、45年3月で19%、6月で46%だったという。

次の終戦への節目は、同盟国ドイツの敗戦だった。
45年4月30日、ヒトラーが自殺し、5月8日にドイツは無条件降伏した。ここで、「武装解除」と「戦争責任者の追及」は避けたいという天皇の気持ちに変化が表れる。
5月2日か3日、近衛文麿元首相は、木戸内大臣から「二つの問題もやむを得ないとのお気持ちになられた」と聞かされる。
また、ヒトラー後任のドイツ軍トップが「ボルシェビズズム(ソ連共産主義)による破滅からドイツ国民を救う」との声明を出した事実が、天皇の侍従の3日付の日記に出てくるが、これは天皇にも伝わったと推測できる。
詔書の文面の準備が周到に開始された。
だが、ポツダム宣言の受諾までここから3ヶ月以上もかかった。

こうして、やめ時は何回もあったのに、それを逃し続けたのだった。
早くにやめていれば、沖縄の大量死も、広島・長崎の被爆も、満州朝鮮半島における民間人の悲劇も避けられたはずだ。

フィリピンでは最後の1年で50万人の日本軍の犠牲が出た。
戦争をはじめた責任ばかりが問題にされるが、終戦の逸機もまた責任を問われるべきではないか。
そう考えるようになったのは、フィリピンの戦跡で兵士たちの地獄を想像したときからだった。

写真はレイテ島に上陸するマッカーサー一行。それが銅像になって観光名所になっている。