天皇の沖縄への思い

 きょう、天皇と皇后が沖縄県を訪問した。沖縄訪問は、皇太子時代(5回)を含めて今回が11回目。在位中、最後の訪問となる見通しだという。
 TBS「報道特集」は、特集【象徴天皇として〜沖縄への思い】で、今上天皇と皇后がいかに沖縄の人びとの運命に心を砕いてきたかを扱った。私も知らない事実が多く、学ぶところの多い特集だった。
 番組では、印象に残る「お言葉」がいくつか紹介された。補足して紹介する。
 皇太子の時に初めて訪れた1975年7月、ひめゆりの塔慰霊のさい、過激派から火炎瓶を投げつけられる事件があった。その夜、発表された談話。
 払われた多くの尊い犠牲は、一時(いっとき)の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人ひとり深い内省のうちにあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」。
 今の政権の中枢にいる人たちにかみしめてほしい言葉である。火炎瓶事件のあと、行程がキャンセルされるかと思われたが、天皇・皇后は毅然として「何があっても受けます」と言い、予定を一つも変更することなしに慰霊の旅を続けたという。
 天皇即位4年後、沖縄を訪問したさいの遺族に対する「お言葉」。
 「即位後、早い機会に沖縄県を訪れたいという念願がかない、今日から四日間を沖縄県で過ごすことになりました。到着後、国立戦没者墓苑に詣で、多くの亡くなった人々をしのび、遺族の深い悲しみに思いを致しています。」(冒頭部分)
 天皇・皇后は、毎年、沖縄戦の犠牲者らを悼む「慰霊の日」の6月23日には御所から沖縄の方角を向いて黙祷をささげているという。

 1997年の天皇誕生日にあたり記者会見で、今年一年の印象深い出来事を質問されての答え。
 「本年は沖縄が復帰してから25周年に当たります。復帰してから随分長い年月がたったようにも感じますが,戦争が終わってから復帰までの年月の方がまだ復帰後よりも長いわけです。先の戦争が歴史上の出来事として考えられるようになっている今日,沖縄の人々が経験した辛苦を国民全体で分かち合うことが非常に重要なことと思います。
 しかし、沖縄の人々の「辛苦を国民全体で分かちあう」ことは今ないがしろにされていると言わざるをえない。

 番組で紹介されたエピソードから。
1)琉球古典音楽人間国宝、照喜名朝一さん(85)は天皇が詠んだ「琉歌」を披露した。
 ふさかいゆる木草(きくさ)めぐる戦跡(いくさあと)くり返し返し思ひかけて
 (フサケユルキクサミグルイクサアトゥクリカイシガイシウムイカキティ)

 琉歌とは、沖縄諸島に伝承される短詩で、読むだけでなく歌う。奄美では島唄と呼ばれる。地元の言葉を使い、8・8・8・6の音節で読むのが基本形だ。これは75年の沖縄初訪問の際に披露されたもので、天皇琉球語で歌を詠むほどに沖縄理解を深めていた。
 この琉歌の題は「摩文仁(まぶに)」。平和祈念公園のある沖縄戦終局の地である。「ふさかいゆる」とは、ふさふさと繁っているさまを意味する古い表現だという。この琉歌は「慰霊の日」前日、沖縄平和祈念堂(糸満市)で開かれる前夜祭で歌い継がれているそうだ。


2)沖縄に、美しいヒレをもつ「ハゴロモハゼ」という魚がいるが、この名付け親は、ハゼの研究家でもある天皇だという。琉球の歌舞劇である「組踊」(くみおどり)に「銘苅子」(めかるし)という演目がある。沖縄の羽衣伝説をもとにして創作されたもので、天皇はここから命名したのだった。

3)2004年、天皇・皇后は、「国立劇場おきなわ」の杮(こけら)落とし公演を参観している。他に国立劇場があるのは、東京と大阪だけ。沖縄に国立劇場をつくるというのは天皇、皇后の強い希望だったという。
 天皇は即位10年の記者会見でこう語っている。
 沖縄県では,沖縄島や伊江島で軍人以外の多数の県民を巻き込んだ誠に悲惨な戦闘が繰り広げられました。沖縄島の戦闘が厳しい状態になり,軍人と県民が共に島の南部に退き,そこで無数の命が失われました。島の南端摩文仁に建てられた平和の礎には,敵,味方,戦闘員,非戦闘員の別なく,この戦いで亡くなった人の名が記されています。そこには多くの子供を含む一家の名が書き連ねられており,痛ましい気持ちで一杯になります。さらに,沖縄はその後米国の施政下にあり,27年を経てようやく日本に返還されました。このような苦難の道を歩み,日本への復帰を願った沖縄県民の気持ちを日本人全体が決して忘れてはならないと思います。私が沖縄の歴史と文化に関心を寄せているのも,復帰に当たって沖縄の歴史と文化を理解し,県民と共有することが県民を迎える私どもの務めだと思ったからです。後に沖縄の音楽を聞くことが非常に楽しくなりました。」
4)最後に、1996年4月に来日したクリントン米大統領との会見で、天皇は「日米両国政府の間で十分に話し合われ、沖縄県民の幸せに配慮した解決の道が開かれていくことを願っております」と述べた。これは当時動いていた普天間など沖縄の基地問題を念頭にしたもので、政治的発言ができない立場で、ぎりぎりの表現で気持ちを語ったと理解できる。

 長くなったが、政府も日本国民も沖縄に犠牲を押し付けている現状を見るにつけ、天皇の象徴としての努力に感慨を覚えたのだった。
 明日4月1日は、米軍が沖縄本島に上陸した日である。