きょうは、こんどの3日(日)放送の「情熱大陸」の本編集。
うちのオフィスで2週間かけてオフライン編集(プレ編集)した後、スタジオにそのデータを持っていきマスターテープを作り、テロップを入れたり、モザイク処理したりする画像編集をする。
この本編集を業界用語でVV(ブイブイ)と呼ぶ。ところが、NHKではこの作業をECS(イーシーエス)と呼んでいて、戸惑ったことがある。Electronics edit Control Systemの略だそうだ。
NHKは、他にも民放には見られないシステムや用語がいくつもあって、やっぱり違うんだな、と思わせられることが多い。
VVの後、音響効果を入れたりナレーション録りをする音声編集(MAという)を行って納品するという手順になる。これは明日の作業になるので、きょうは帰宅できた。
ところで、「情熱大陸」はMBS(毎日放送)製作で、ふつうは日曜よる11時から、TBS系で全国放送される。ここにうちの会社にとって、ある問題が生じる。
先週も制作協力したフジTVのMrサンデーと放送時間が15分ほど重なる。つまり互いに裏番組になっているのだ。
テレビ界の熾烈な視聴率競争のなか、一つの制作会社が、同じ時間帯に放送される他局の番組の制作に関与することは許されるのか、という問題である。
番組プロデューサーにすれば、制作会社はパートナーであるから、「味方かと思っていたら、今度はこっちに銃口を向けるのか」ということになる。かつては、受注するテレビ局が決まっている制作会社も多く、「ご法度」の範囲は広かった。
今は、民放局の資本の入った制作会社がNHKの番組を受注したり、とかなり事情が変化している。さらに、BSやらCSの放送もあり、生ではなく録画で観る人も増え、再放送もされるとなると、制作会社側からすれば、厳しいこと言ってたら仕事できないよ、とも言いたくなる。
今は過渡期で、人によって、会社によって、考え方はいろいろだ。
社内に複数の会社を作って、局ごと、番組ごとに使い分け、これを「けじめ」とする制作会社もある。
弊社は、そのままの社名でどちらにも制作協力しているが、どちらかのプロデューサーが厳しい人なら、出入り禁止になるかもしれない。
ただ、放送日が同じになる場合に両方に制作協力するのは、さすがに「仁義」にもとると思うので、これは避ける。このあたりが今のところの弊社の基準だ。
3日は「情熱大陸」の放送開始が、通常より10分遅れて11時10分から。一方、MRサンデーの放送終わりが11時15分で、重なる時間が少ない。少しほっとしている。
へえ、そんなことに気をつかっているんだ、と思う方もいるでしょうね。
あまり知られていない業界の商慣習の一端を紹介しました。
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写真は、猿まわし師、村崎太郎さんの17歳のとき、猿の初代次郎と。
精悍な表情だ。
この写真、番組でも使ったのだが、『あるくみるきく』という雑誌の1979年1月号の表紙である。
《『あるくみるきく』は、日本の民俗学者、宮本常一によって1967年に創刊された雑誌。日本観光文化研究所から1988年まで出版されていた。
宮本常一が日本観光文化研究所の所長を務めていたころから出版され、同研究所が解散する1989年の前年に廃刊となった。
「あるく」「みる」「きく」とは、宮本の研究に対する姿勢と調査方法を端的に表した言葉でもある。》(Wikipediaより)
実は、うちのかみさんは若い頃、観文研で働いており、『あるくみるきく』全巻を持っている。
私が、村崎太郎さんをやることになったというと、その特集号があると、大きな段ボール箱から探しだしてくれた。
これではじめて知った事実が実に興味深い。
村崎太郎さんの出身地、山口県光市の高洲(たかす)に伝わる猿まわし芸は、この周辺の未解放部落の生業の一つとして、大きな位置を占めていたという。
《かつてこの地区は、明治時代以後の近代猿まわしを輩出する根拠地のひとつであった。
最盛期の大正初期、高洲には猿まわしの親方が7、8人いて、親方専属の仕込み師(調教師)とともに、総数150頭にもおよぶサルを育成していたという。各親方はまた十数人の子方(ヒコやり)をもち、前金を貸しつけては、一年間かれらにサルをあずけた。
子方たちは、親方からサルと前金を借りると、数人の組をつくって全国を歩きまわった。かれらの前金は、そのほとんどが郷里に残る家族の生活費にあてられた。したがって、かれらの旅先での生活費は、猿まわしで稼ぐしかない。もちろん生活費とは別に、親方に返済する分、家族への仕送り分なども稼いでいかねばならなかった。(略)
しかし、昭和5年以降は、しだいに衰亡の道をたどりはじめる。そして、昭和30年代後半にはいると、ほとんど姿を消してしまうのである。》(P5)
1970年(昭和45年)の暮れ、俳優の小沢昭一が、ひょっこり高洲を訪れた。猿まわしを取材しに来たのだった。
これに刺激され、郷土が生んだ芸の復活を真剣に考え始めたのが、太郎さんの叔父、村崎修二さん。地域で復活の機運が高まるなか、宮本常一が折あるごとに来てアドバイスをするようになる。
さらに、霊長類研究の大御所の今西錦司、京大霊長類研の河合雅雄所長など錚々たるメンバーも関わりながら、かつて猿を仕込んだ人から伝授を受け1970年代の終わりに猿芸はついに復活を遂げる。その過程は、民映研(民族文化映像研究所)の姫田忠義所長が記録映画にしている。
猿芸復活は、当時、非常に注目されたユニークな文化運動だったのである。
そして、猿まわし後継者第一号として選ばれたのが、当時高校3年の村崎太郎さんだった。
この雑誌では、村崎太郎さんはこう紹介されている。
《村崎家四男、光高校三年在学中の17歳。高石ともやとザ・ナターシャセブンを信奉し、かれらの歌や演奏を徹底的にコピー。それをふまえたうえで、目下、仲間とともにオリジナリティの研鑚を積んでいる。》
ミュージシャンを夢見る高校生で、笑顔でギターを弾く写真も載っていた。
だが、太郎さんが書いた本には、子どもの頃、辛い差別を受けた体験や、日本一の猿まわしになって未解放部落の仲間を元気づけたいという決意が吐露され、重いものを背負っての出発であったことがつづられている。
(つづく)