宮本常一歌集『畔人集』によせて2

 オリンピックを前に羽田空港の国際線の発着回数を年間6万回から9万9千回へと大幅に増やす。そのため、都心の空を通る新ルートのテスト飛行がきのうから始まった。

 《国土交通省は2日、東京都心の上空を通過する羽田空港の新しい飛行ルートについて、大型旅客機を実際に飛ばす「実機飛行確認」を始めた。正式な運用が3月29日に始まるのを前に、管制業務の確認や騒音測定をした。》(毎日新聞)

f:id:takase22:20200204003119p:plain

旅客機は左下、右上に東京タワーが見える。かなり低くを飛んでいるのがわかる。(毎日新聞の動画より)

 飛行機をギョッとするほど近くに感じた人が多かったという。騒音もかなりのものだったらしい。
 この件にはいろいろな問題があるのだが、米軍基地の存在も深く関わっている。
 『しんぶん赤旗 日曜版』2019年12月22日号
 羽田新ルート 異常な急降下着陸 理由は米軍基地
 《旅客機が都心上空を低空飛行する羽田空港の新飛行ルートで重大疑惑です。国土交通省が、滑走路へ降下する角度(降下角)を世界標準の3度から危険とされる3・5度へと引き上げたのは、米軍が管理する「横田空域」が理由だった-。そんな疑いが編集部入手の大手航空会社内部資料から出てきました。事実とすれば国民の安全よりも米軍を優先したもので、国交省の責任が問われます。         安岡伸通記者

 横田空域は、東京西部にある米空軍横田基地を中心に神奈川県や静岡県、北は新潟県まで1都9県にまたがる広大な空域。米軍が管理しています。新ルートのうち、南風好天時で四つある滑走路のうちA滑走路に着陸する場合、さいたま市上空から横田空域に入り、東京都中野区上空で同空域を出るコースとなっています。
 国交省が降下角引き上げを表明したのは8月7日。「3・5度にできるかぎり引き上げることによって、飛行高度の引き上げ、騒音影響の低減を図る」と説明していました。しかし編集部が入手した大手航空会社の内部資料には別の理由が…。
 「(着陸への最終進入開始点が)横田空域内に位置している事に起因しており、横田空域内のTraffic(飛行する航空機)と垂直間隔を確保する必要がある」
 横田空域内を飛行する米軍機などと間隔をあけるには、中野区上空にあたる最終進入開始点で、3800?(約1160m)以上の高さを確保する必要がある。だから約3・5度に引き上げなければならない-。というのです。
 航空評論家の杉江弘さん(元日本航空機長)は指摘します。
 「降下角3・5度は危険です。国交省が国民や乗客の安全よりも米軍を優先したのなら、日本の空の安全を米軍に売り渡す背信行為と言わざるをえません」  野上浩太郎官房副長官は30日、米軍が管轄する横田基地周辺の「横田空域」を通過する羽田空港の新飛行ルートについて、米軍側と基本合意したと発表した。羽田への飛来便については、横田空域を通過中も日本側が一元的に管制を行うことになった。》

 

f:id:takase22:20200203082054j:plain

 きょうのテレビ朝日のモーニングショーの画面より。

 横田空域は、東京、埼玉、群馬、栃木、神奈川、福島、新潟、長野、山梨、静岡の1都9県にまたがり、高度2450mから7000mまでの広大な空域。これを米軍が管理下に置いており、日本の民間航空機が同空域を飛行するには米軍の許可が必要だ。

 横田空域についてはあらためて書くが、これでは日本は独立国とはいえない。数日前の朝日川柳にこんなのがあった。

きみ知るや東都の空未だ占領下 (岐阜県 清水朋文)

・・・・・・・・・・・・
 田村善次郎さんが今年編んだ宮本常一の歌集『畔人集』には、宮本自身が1930年(昭和5年)に編集した歌集『自然に對(むか)ふ』が収められている。
 そこには、宮本が「初めて作った」という14歳のときの歌が挙げられている。

うす暗き小屋の隅にて縄なへば 雨降る軒に雀なき居り

 「初めて作った私のこの歌が新国民(国民中学会機関誌)の歌壇甲の部にのせられたのは大正十年の秋であった。それから丁度十年たつ。その間和歌らしいものを実に多く作り続けて来た。数にしたら一万を越したであろうが、苦労して作るでなく、未だ基礎の少しも出来ていない私が筆から出まかせに書くのだから一つとして録なものはなかった」
 十年で一万とは大変なペースである。
 「固より私は歌人ではない。だが歌が私のよき伴侶であったことは事実だ。そして又古い歌稿を整理したいとは早くからの念願であった。がその折りがなかった。所が本年一月より病魔とたたかふ身になり、死線をさまよふ事二回。死に直面したとき何か残したいと言ふ気持が痛切に身体内をふるはせた。そして病のややよいのを幸に急いで歌稿整理にとりかかった。」
 宮本は15歳で農家を継ぐが、その後夜学に通い、20歳で小学校の教員になる。ところが1930年(昭和5年)に肺結核にかかり、休職して故郷の周防大島で療養する。このとき、「死」を強く意識したようだ。

 「子を持った者は、死に望むまでは後々の事を考へて苦しむさうだが、死に望むと案外落付くと言ふ。反対に子を持たぬ者は、死に到るまでは比較的呑気だが、死に望んでは言ひしれぬ淋しさと焦燥を感じるさうである。子に託す自分の生命・・・つまり自分の永遠性が死を恐れしめないのであらう。実に深い言葉である。たとひこの歌集がつまらぬものであっても、私は之に永遠なるものを託したいのである。何故なら貧しいこの歌のどこにも私の姿がひそんで居るから。」1930.10.17  宮本常一

 近くに迫った「死」を前に、自らを永遠に残すものとして歌集を編んだというのだ。
 この23歳からの病気療養は、宮本常一にとって決定的な転機になったのである。
(つづく)