宮本常一歌集『畔人集』によせて3

 3日、米大統領選の候補者選びの第一歩となるアイオワ州の党員集会が始まった。共和党はトランプ氏で決まりだが、民主党は11人が争う大混戦。
 集計システムのトラブルで結果発表が延び延びになる波乱の幕開けとなったが、それはともかく、候補者の顔触れは実におもしろい。
 11人中3人が女性で、有力候補の一人、エリザベス・ウォーレン上院議員は著名な法学者。ダークホースのピート・ブティジェッジ氏は弱冠38歳、人口わずか10万人のまちの市長で同性愛者だ。

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左がPeter Buttigieg。右はパートナー

 前ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグ氏は大手総合情報サービス会社「ブルームバーグ」創業者で億万長者。両親が台湾移民のアンドリュー・ヤン氏は、全アメリカ国民に月1000ドルをベーシックインカムとして分配する政策で一躍注目されている。女性下院議員、トゥルシー・ギャバード氏は、米国議会で初めてのサモア生まれで、ヒンドゥー教徒の議員という変わり種だ。
 アメリカの民主主義がいろいろな問題点をもつとしても、このように多彩な人材が大統領候補者として政治の舞台に押し上げられてくる許容度の大きさは大したものだ。今後も注目していこう。
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 節分の翌日、きょうは立春だ。旧暦では一年の始まりは立春からで、八十八夜、二百十日などは立春から数えた節目となる。立春以降、最初に吹く強い南風を「春一番」という。
 初候「東風解凍」(はるかぜ こおりをとく)が2月4日から。次候「黄鶯睍睆」(うぐいす なく)が9日から。末候「魚上氷」(うお こおりをいずる)が14日から。
 本格的な寒さも立春までとされるが、今年は異例な暖冬。1月の平均気温が関東以西は1946年の統計開始以降、最高になり、降雪量は、北日本から西日本の日本海側で、61年の統計開始以降で最も少なかったという。2月も同じ状況が続くらしい。
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 宮本常一に師事した民俗学者、田村善次郎さんが宮本の歌を編んだ『畔人集』(くろひとしゅう)。畔人は宮本の雅号だが、この読み方に、やはり「水仙忌」に参加して歌集をいただいた法政大探検部OBの岡村隆さんが異論を唱えている。

《「くろひと」か「くろんど」か? 宮本常一歌集の謎。
昨夜(1月30日)の「水仙忌」で配られた宮本常一歌集の『畔人集』。宮本先生の一番弟子だった田村善次郎先生が個人で編集制作し、みんなに贈呈されたもの。本当にありがたいことだ。その際、この『畔人集』の「畔人」の読み方が問題になったが、田村先生は「くろひと」と読むことにしていると言い、みんなもそうなのかなあ……という結論になった(誰も宮本先生本人からこの雅号を音で聞いた者はない)。生涯、百姓を自認していた宮本先生だから「くろひと」でも「くろびと」でも「あぜびと」でも似合ってはいるが、帰宅後に考えてみると、これは音便化して「くろうど」とも「くろんど」とも読めることに気がついた。田村さんも宮本先生が小学校教員時代「クロンボ先生」と呼ばれていたことを書いているが、そこからすると、これは本当は「くろんど」なのではないかと考えた次第だ。田村先生に逆らうわけでは決してないが、ゆかりある皆さんのお考えはいかがだろうか。》https://www.facebook.com/takashi.okamura.944/posts/1572907692850648
 宮本を慕う人たちが、こうした議論を交わすのを見るのは楽しい。

 『畔人集』に収められた宮本の第一歌集というべき『自然に對(むか)ふ』は1930年、宮本23歳で編んだものだ。
 宮本常一の年表によると、1933年に「私家版の歌集『歌集 樹蔭』を出す」とされている。『樹蔭』はガリ版刷りだったが、それより早い『自然に對ふ』は歌集といっても、宮本が手書きで原稿用紙にまとめたものだった。田村さんは、この歌集も復刻して2010年の水仙忌で配布してくださっていた。

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歌集『自然に對ふ』 綴じられてもいない原稿用紙の束

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 きょう、田村善次郎さんに電話でお聞きしたところ、宮本は病いの中、腹ばいでこれを書いたという。そのためか、字が乱れて読みにくいところがある。
 歌集冒頭には「重田堅一兄に捧ぐ」とある。大阪府天王寺師範学校時代の親友である。宮本は大阪の泉南郡の小学校に赴任して熱心に教育にあたっていたが、肺結核を病んでいることが分かり、1030年はじめに故郷の山口県周防大島に帰って療養生活に入る。重田さんは宮本の学費を支援しただけでなく、療養中も常に励ましてくれたという。歌集『自然に對ふ』は、重田さん一人に贈るために編まれたのだった。

名成さずばかへるまじをと誓ひたる 故里の地を病みて踏みたり

 当時、結核は「肺病」といって不治の病と恐れられていた。教員生活に入ってわずか3年、宮本は死病を得て、失意のなか故郷に戻らざるを得なかったのである。

心臓の鼓動の早き日よかなし、胸に手あてて脈をはかれる
恐ろしき死が吾(ワ)をつかむ夢さめて 何がなく侘し燈をつけにけり

 この時期の和歌に見られる宮本の心境から、彼の人生観をさぐってみたくなった。
 メメントモリ・・実は、このとき死の病にかかったことが宮本の人生を決定づけることになる。
(つづく)