差別のなかで生まれた猿まわし芸

takase222015-05-03

情熱大陸」の編集が終わったのが今朝3時。
完成したOA用テープは、うちのADのY君が朝の新幹線で運んで、大阪のMBS(毎日放送)に納品しに行く。「情熱大陸」はTBSではなくMBSの番組なのだ。テープを途中でなくしたりすれば大変なので、Y君は緊張気味である。
「必ず新大阪行きに乗りなさいよ」と言って送り出す。寝過ごして福岡あたりまで行ってしまうと放送事故になりかねない。
私はオフィスに引き上げ、仮眠の前に、酎ハイを呑んでほっと一息つく。達成感と安堵感がこみ上げてくる。
ただ、連休ど真ん中で、天気がよさそうだから、視聴率は厳しいかも。
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さて、前回、山口県東部の高洲周辺で、廃れていた猿まわし芸を復活させようと、村崎修二さんという人が動き出したことを書いた。
村崎家は、先祖が猿まわしの親方だったという。村崎修二さんの兄の村崎義正さん(共産党の市会議員)が、1977年、猿まわし復活のために「周防猿まわしの会」を設立し会長になった。
その義正さんが四男の太郎さんを、誰もやってないことをやって日本一にならないかと説得。太郎さんは大学進学の道を捨てて、猿芸の世界に飛び込んだのだった。
村崎義正さんが、『あるくみるきく』に猿まわしの伝統について書いた文章が興味深いので、紹介したい。

《昭和37年、重岡武寿・博美の兄弟が、猿まわしをやめて、おしくも千年の伝統は消滅した。
 私が猿まわし芸の重要性に気付いたのは、昭和40年である。部落解放運動を発展させるために、高洲がどんな理由によって差別されるようになったのか、(略)差別のルーツを具体亭に調査しはじめてからであった。(略)
かつて、この浜辺(虹ケ浜)は高級魚の宝庫であったが、高洲の者には漁業権が与えられなかった、後背地にある田畑の耕作権も与えられなかった。(略)
 人の嫌がる長史(岡っ引き)、死牛馬の処理、遊芸などを主体に、原始的な手法で、野山、河川、磯辺などで、食物になるものを採取して、辛うじて子孫を残した。(略)高洲の猿まわしは、こうした極限的な地理的条件と生活実体のなかから生まれてきた芸能である。
 毛利藩政時代、猿まわしは高洲でほそぼそと息づいてきたのであろうが、明治4年に、部落の解放令が出て、活発になった。それまでは、居住地から、みだりに外出することを禁止されていたのであるが、外出が自由になった。(略)こうして、有名な、伊豆大島椿油売りと猿まわしは、高洲を拠点に、全国津々浦々へ出廻るようになったのである。
高洲では、これらの旅歩きを「上下(じょうげ)ゆき」と呼んでいた。北は北海道、南は鹿児島まで、上(かみ)にのぼり、下(しも)にくだるからである。親方に引率された十人、二十人の子方が、集団で稼いで歩いた。高洲には、7、8人の親方がいて、その親方連中は専門の調教師を雇っていた。猿は150頭もいた。したがって、猿まわし芸人も、150人いたことになる。これだけの人間が、5月の14日、15日におこなわれる普賢祭り(光市室積)が終わると、いっせいに旅に出て、翌年の4月なかばまで11カ月間、全国を稼ぎ歩くのであるから、国民の肌にふれる身近な芸能として親しまれたのは当然である。
 高洲の猿まわしは、猿と芸人の力量によって、バタウチ(大道芸)と門付(かどづけ)芸とにわけられた。(略)
 ところが、暗い日々に喜びとうるおいを与えた猿まわし芸人のくらしは悲惨なものであった。一年間五十円、百円という金を、親方に前借りして旅に出、体を束縛され、一日最低二円稼ぐノルマを課せられ、もし、ノルマが果たせなかったら、ひどいリンチがくわえられた。(略)》

 ここに「伊豆大島椿油売りと猿まわし」と出てくるのは、全国を回る猿まわしは、芸を見せ、集まった人々に椿油を売っていたことをいう。周防の猿まわしと椿油はセットとして知られるようになったという。
 しかし、いったん途絶えた猿まわし芸の復活は容易なことではなかった。
(つづく)

 写真は、復活したばかりの猿まわしが披露された時のもの。キャプションは「防府市富海の国津姫神社での興業。丸い人垣が、熱気と笑いにつつまれた」。