サハリン残留日本人との再会

takase222013-05-28

月末が近づき資金繰りが苦しくなると、不思議なもので、ボランティアみたいなイベントが舞い込んできたりする。
金もかかるし、せわしいし、まずは欠席しようかなと思うのだが、世話になった人の顔が浮かぶと断れない。
きょうは、「サハリン協会」の設立総会の懇親会に顔を出した。この会は、もと「日本サハリン同胞交流協会」といい、樺太(サハリン)に戦後残った日本人(と一部朝鮮人)の帰国を支援してきた唯一の民間団体だ。
《戦後、ロシア・サハリン(樺太)に残された日本人の帰国を支援してきたNPO法人「日本サハリン同胞交流協会」(東京都)が2日、札幌市で最後の総会を開き、23年間にわたる活動を終えた。
 幹部の高齢化が主な理由。協会の支援で134世帯303人が永住帰国を果たし、延べ約3100人余が集団一時帰国した。今後は、若い世代が作ったNPO法人「日本サハリン協会」(東京都)が帰国者の支援を引き継ぐ方針だ。》(朝日新聞3月2日)
サハリン(大泊=コルサコフ)生まれの小川岟一(おがわよういち)さん(元新聞労連書記長)が1989年に「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」を立ち上げたころ、私はこの事務所に足しげく通い、サハリンの残留日本人から残留朝鮮人の取材、さらにはテレビでは初となる北方領土国後島)取材へとつなげていったのだった。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20130202
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20101007
単に、スクープでうれしい、ということではなく、私の仕事の結果として、世の中が明らかに変わって、「ああ、こういう仕事をやってきて、ほんとうによかったな」と心から感じたはじめての経験だった。
きょうの参加者には多くのサハリンからの帰国者がいて話ができたが、サハリンのほとんどの韓国人の一世はすでに韓国に永住帰国したという。
ここまでドラスティックに社会を変える報道にめぐりあえたことに運命を感じる。

写真の右の方は、90年に残留日本人の第一次一時帰国組として戦後初めて祖国の土を踏み、98年に永住帰国した近藤孝子さん(82)。左がサハリン生まれで戦後円滑に帰国でき、残された昔の同級生の帰国を支援してきた久保田さん(85)。私はすっかりごぶさたして二十年以上ぶりの再会だったが、この問題の取材としては「さきがけ」だったせいか、私をみなさん覚えていて声をかけていただいた。
80前後のおばあさんたちが、「懐かしいねえ」と嬉しそうに腕や肩をたたいてくる。すっかり若僧扱いである。
「一緒に来たカメラマンの人、亡くなったんだってね」
サハリン取材で私が組んでいた山内孝治カメラマン(28歳でナミブ砂漠で死亡)のことも憶えていてくれた。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080802
つらくてちょっと落ち込みそうになるとき、昔の人と会うのはいいものだ。
自分の「原点」を振り返ることができるから