サハリン邦人帰国に尽力した小川岟一さん逝去


 サハリン協会の元会長、小川岟一(よういち)さんが亡くなった。
 《戦後、旧樺太(ロシア・サハリン)に取り残された邦人の帰国運動に尽力した元日本サハリン同胞交流協会(現日本サハリン協会)会長の小川岟一(おがわ・よういち)氏が7月31日午前10時49分、肺がんのため東京都渋谷区の病院で死去した。85歳。旧樺太生まれ。葬儀・告別式は8月9日午前9時半から東京都渋谷区西原2の42の1、代々幡斎場で。喪主は妻芳子(よしこ)さん。
 1980年代末から残留邦人の帰国運動に奔走。92年に日本サハリン同胞交流協会を設立し、事務局長を経て会長を務めた。永住帰国者の生活支援にも携わった。》(共同)

 サハリンの邦人の実態調査から、一時帰国さらには永住帰国の実現への流れをパイオニアとして切りひらいた人である。日経新聞の労組委員長から新聞労連の書記長(1961年から7期)となり、国会議員に出馬する話もあったそうだ。ばりばりの左翼なのだが、運動を政治化せずに人道問題として地道に訴えたのがよかったのだろう。ワンマンだったけれども、同胞を祖国に帰さねばと強い熱意で運動を引っ張ってきた。
 私は1989年からしばらくサハリンの残留日本人、朝鮮人の取材に集中していたが、小川さんには応援してもらってとても助けられた。どこに日本人が何人くらいいてどんな暮らしをしているのかを調べに、サハリン各地を回ったことが思い出深い。その昔は、日本人同士で集まること自体が当局に睨まれる危険な行為だったという。ペレストロイカのなかで、ようやく調査ができるようになったのだった。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20130202

 もっとも、サハリンでの取材は、残留朝鮮人のほうが先だった。この取材が私の転機になった。
 サハリン(樺太)の朝鮮人は強制連行されてきて、戦後、故郷に帰れなかったのは日本のせい、だから日本人の自分は罵られても仕方ないな。びくびくしながら現地に着くや、市場の朝鮮人のおばさんたちから、「本土から来た日本人かい。なつかしいねえ」「ひばりちゃん、死んだんだってね。みんなで泣いたよ」と声をかけられた。その日から連日、朝鮮人の家に招かれて宴会となり、飲んでは美空ひばりを合唱した思い出話は、だいぶ前に書いた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20100508
 歴史認識がひっくり返る体験だった。
 また、サハリンの残留朝鮮人を取材した私たちの映像素材が、当時まだソ連を自由に取材できなかった韓国のテレビで流され大反響を呼んだことが、大韓赤十字を動かし、残留朝鮮人の韓国への永住帰国につながっていった。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20100509
 「報道で世の中が動くのだな・・」。サハリン取材は私にとって大きなやりがいを感じさせるものとなった。

 4月11日、小川さんがもう長くないと聞いたので、協会の総会のあと、新宿でお会いした。「おれ、肺がんでもうすぐ死ぬから」と笑いながら、酒を飲み煙草をスパスパすっていた。もう一度くらいはお会いできると思ったのだったが。
 ご冥福を祈ります。