サハリンからの訃報

 きょう、NPO法人「日本サハリン協会」から会員向け連絡で、訃報が届いた。

 「ユジノサハリンスクにお住まいの中畑ハナさんが7月25日(土)20:30ご逝去なさいました。88歳でした。(略)
 ハナさんは30年前の第1次集団一時帰国12人のメンバーとして初めて日本の土を踏んでから毎年のように一時帰国を果たしていましたが、今年はコロナ禍の影響で一時帰国が中止となり、来年の帰国を楽しみにしていました。
 またユジノサハリンスク(豊原)在住の、日本語で普通に話せる残留日本人のおばあちゃんとして今年2月に亡くなった松崎節子さんとともに、日本から来た方々のお相手をしてくださったので、思い出のある方も沢山いらっしゃるでしょう。
 一時帰国が始まって30年目の節目の年に、集団一時帰国が中止になり、多くの皆さんと交流のあったお2人の訃報には、戦後75年の意味をあらためて思わずにはいられません。
 貴重な証言者が亡くなることで、残留という歴史がなかったことにならないよう、後を継ぐ私たちは心して仕事をしていかなくてはいけないと感じました。」(斎藤弘美会長のメール)

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記者会見

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中畑ハナさん(日本サハリン協会『チャイカ』帰国30年特集の寄稿)

 私は1989年から、サハリン(樺太)の残留朝鮮人の取材やクナシリ(国後)の取材(日本のテレビの北方領土初取材)をしていた。そのころ進められていた、残留日本人たちが日本に里帰りする運動が実って、1990年5月の「第1次集団一時帰国」が実現した。思い出深い取材だった。

 日本のテレビでは、私たち「日本電波ニュース社」(テレ朝「ニュースステーション」で放送)と「テレビ東京」のクルーがサハリンからハコ乗りして、ハバロフスク経由で新潟空港に着いた。
 日本を初めて見て大はしゃぎする人がいた一方、危篤のお母さんの病室に駆け付けたがタッチの差で死に目にあえずに涙にくれる人もいた。それぞれの戦後史のドラマを垣間見ることができた。

 今回亡くなった中畑ハナさんは、テレ東が主人公として取材対象にした人だった。
 一時帰国のあと、日本の叔父さんから「家もくれるから」と永住帰国を勧められたが、「私の母さんも子どもを投げなかった(置き去りにしなかった)。ワチも(サハリンにいる)子どもは投げられない」と断ってサハリンに住み続けた。

 日本サハリン協会の会報『チャイカ』(カモメのロシア語)の一時帰国30年特集に私も短い思い出話を投稿した。

 《私はテレビ取材のためにサハリンに入りました。
 当時、残留日本人のとりまとめ役だった野呂静江さんにお会いすると、まだ名簿づくりの途中だとのこと。ペレストロイカの前は、当局の目を恐れ、日本人同士で集まることもはばかられたため、誰がどこにいるか一から調べている、とくに豊原(ユジノサハリンスク)以外の地域は情報が少なく、直接会いに行くしかないといいます。みなさんが長きにわたって置かれてきた厳しい境遇の一端を知りました。
 野呂さんの調査行に一日ついて行ってみました。
 訪れた村には日本人の姉妹がいて、ご馳走を用意して待ち受けていました。サハリンの他の日本人との交流はほとんどなく、孤立して暮らしてきたそうです。日本人に会うのは何年ぶりだろうと言って大歓迎してくれました。私の取材チームを「本土からきた兄ちゃんたちだ」と腕を引っ張るように家に招き入れ、さっそく宴会です。
 話題は最近の日本事情。大相撲の関取の名前や成績は私たちよりずっと詳しく知っています。NHKのラジオ放送を聞くのが一番の楽しみだとのこと。お酒が入ると、やはりラジオで覚えたという美空ひばり三橋美智也のヒット曲を次々に熱唱。よほど歌い込んでいるようで、その声は素人離れしています。「悲しい時は、いつも日本の歌を歌っているんだよ」と涙ぐみながら、まだ見ぬ祖国への里帰りを切望する姿に胸を突かれました。
 戦後半世紀近く経っても、日本に行けない日本人たちは、戦争の忘れ形見で、私たち日本人みんなが責任を負うべき存在だと思います。この取材は私に、歴史からこぼれ落ちる大事なものに目を開かせてくれました。》

 サハリン(樺太)の戦後処理は非常に興味深い。
 日本軍は敗戦間近に「国民義勇戦闘隊」を全国民で組織し「玉砕まで遊撃戦を行わんとする」ことを決めたが、その計画が実行された唯一の戦場が樺太だった。8月15日のあとも戦闘が続き5000人の邦人が犠牲になった。集団自決など沖縄と同様の悲劇が数多く起きた。

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 樺太からの公式引き揚げは、ソ連と米国との協議により、1946年から始まり49年7月に終了する。戦争による民間人の引き揚げのうち最後だったという。なお2万3千人いたとされる朝鮮人は引き揚げの対象にならず、そのまま残留させられた。

 《しかし、その最終引揚者からは「樺太になお2356名の日本人が残留しており、その内ソ連人、朝鮮人の妻となった者が約1000名居り、他は服役者約500名と、ソ連諸機関に留用されているもの及び残留希望者である」との情報がもたらされた。
 こうして多くの日本人が残されたのである。
 彼らは国境線が変わることで「本籍地」が外国となり、戸籍上は日本人とは認められない「無戸籍の日本人」となったのだ。
 「サハリン残留日本人」はこうして生まれた。(略)
 しかし、その存在を政府は認めなかった。残った人々は自主的に残留した。だから日本人ではないというのだ。
 こうしてソ連人、朝鮮人の妻となった約1000名は本籍抹消、また国籍の問題で日本の戸籍を得ることができなくなった。
 日本人の妻となった外国人妻等は日本に帰国できたが、朝鮮人と結婚した日本人女性は帰る術を失うという事態が起っていた。
 自分が日本人である証明である戸籍謄本等を保管していたとしてもそれを隠して生きなければならなかった。
 残留者は親の死後見つけた戸籍謄本を棺の中に納め「せめて魂が日本に帰りますように」と祈る例も少なからずあったという。》

(井戸まさえ「「娘が死んだとき、ワシは踊った」サハリンで生きる残留日本人の告白」より)https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56854?page=3

 自身が樺太からの引揚者である小川岟一(よういち)さんらが、残留日本人の存在を認めない政府に「同胞を見捨てるのか」と詰め寄って帰国運動がはじまった。
 「本来、戸籍原簿なり、戸籍を証明するものを持ち帰るのは樺太庁、国の責任ではないか。残留を余儀なくされた人については早めに、国が本籍を特定したり、名簿の公開をすべきではなかったか。
 戦後一歳や二歳で親にはぐれたものに、その証明をせよというのは誠に酷な話である。国が保管している引揚者名簿があるのに、それは十分に活用されていない」(小川さん)

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 私は、一時帰国が実現する前から、小川さんたちが手弁当で一から資料を集めて厚生省などに談判する姿を見て、日本政府の戦後処理のお粗末さを見せつけられた。
 その一方で、信念をもって行動すれば、一人でも事態を動かすことができることをも学んだ。

 今回の中畑ハナさんの逝去で、あのときの12人のメンバーで存命の方は2人になってしまった。時の流れを感じる。
 ご冥福を心よりお祈りします。