小川岟一さんを万歳でおくる

 8月8日の菅官房長官会見。ひどすぎる。
 加計学園問題で、次々に新たな材料が出てきて、具体的に質問されていることに全く答えない。人と人との対話が成立しない絶望感を感じる。はては「質問の答える場所ではないと私は思います」と。では会見は何の場所なんですか。http://inorimashow.blog.fc2.com/blog-entry-295.html
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 ちょっと前のニュースだが、朝倉の三連水車が回り始めた。
《九州北部の豪雨で被災した福岡県朝倉市で2日、豪雨後に動かなくなった国指定史跡「三連水車」の用水路に残った土砂や流木が取り除かれ、水が通された。水車は約1カ月ぶりに元のように動き、住民から喜びの声が上がった。(略)山田堰土地改良区の徳永哲也理事長(70)は「やっとよみがえってほっとした。観光客も増えるだろうし、地域が元気になれば」と語った》
 とりあえず、よかった。水車が回っているのを見るだけで復興が実感できるだろう。
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 きょうは暑かった。都心は37度を超えたという。

 今朝、サハリンに残留した日本人の帰国に尽力した小川岟一(おがわ・よういち)さんの葬儀に参列してきた。会場では昨日発売の雑誌『世界』9月号が販売されていた。「サハリン・シベリアで生きぬいた日本人〜一時帰国の道を拓いた小川岟一と仲間たち」というルポが掲載されている。書いたのはノンフィクションライターの石村博子さんで、彼女によると、小川さんは病床で『世界』の発売日を楽しみにしていたという。31日に亡くなって葬儀が今日とは間が空いているが、雑誌発売に合わせた配慮なのだろう。

 1989年、小川さんが、当時300人いるといわれた残留日本人の一時帰国を支援してくれるよう厚生省にかけあったとき、担当者は、サハリンには日本人はいない、いたとしても「自己意思残留者」で国が面倒を見る人ではないという態度だったという。政府の無理解と闘っただけではない。ペレストロイカ前のソ連では、日本人同士が連絡を取ったり集まったりすればすぐに目をつけられるので、日本人がどこに何人いるのか自体のデータを集める事から始めなければならなかった。そういう出発点から苦闘を重ね、30年近くにわたって、一時帰国のべおよそ3500人(複数回の人や家族を含む)、永住帰国135世帯、305人という成果を挙げてきたのだから、大したものである。ほんとうに頭が下がる。
takase.hatenablog.jp

 私は、1990年5月、初めてサハリンから12人が集団一時帰国したときに取材をして以来の付き合いだ。きょうの葬儀では、サハリンから永住帰国した人々や当時の支援者など懐かしい顔にあって、同窓会のようだった。
 小川さんは茶目っ気のある人で、万歳三唱が大好き。宴会や集会など人が集まったときの締めはいつも「バンザーイ!」だった。葬儀では、娘さんが遺族あいさつで、お父さんを偲んで万歳をしたいと涙ながらに音頭をとり、みんなで大きな声で万歳を唱和した。
 たくさんの人びとの人生を変える大きな事業を成し遂げたことに感謝し、讃えたい。