キルギスにもいた抑留者

13日の日経朝刊社会面に「キルギス抑留埋没させない」という写真入の大きな記事が載っている。
終戦後の元日本兵の抑留については、まだまだ知られていない事実が埋もれていることをあらためて感じた。
中央アジアキルギスの小さな村タムガの、今も療養所として使われている建物は、抑留された元日本兵が作ったものだった。9月にはこの一室に、当時の写真やインタビュー映像を展示する「キルギス平和センター」がオープンすると伝えている。
記事に登場する武内栄さん(89)は、ソ連満州の国境警備についていた。終戦後捕虜になり、多くはシベリアに送られたが、武内さんは125人の仲間とともに46年5月にキルギスに行かされた。
《現地では石とコンクリートで療養所建設に従事。口にするのは1日350?の黒パンと乾燥野菜だけ。氷点下になる冬の夜もわらの上に寝た。過酷な環境の中、武内さんたちは「みな土木作業は素人だったが、日本へ帰りたい一心で仕事をした」》
ところが、厚生労働省の史料には、抑留された知名として「タムガ」の地名はないという。ロシア政府などから提出された死亡者名簿に基づいて抑留を把握しているため、死亡者のいないキルギスについては「抑留された人数や具体的な場所は把握できていない」(社会・援護局)という。
この事実を「発掘」したのは、「シルクロード雑学大学」を主催する長沢法隆さんだ。私の友人でもある長沢さんは、西安からローマまでを20年かけて自転車や歩きやラクダで踏破する「ツール・ド・シルクロード」という面白いプロジェクトをやっている。その過程でこの事実を知り、復員時の抑留者名簿99人を入手し10人に連絡が取れ、交流が始まった。療養所の一室を記念館にするという、今回の提案はタムガ側から言い出したという。長沢さんは武内さんら数人をインタビューし、写真を提供してもらい、実現の運びとなった。
うれしいのは、村人のあいだでの元日本兵の印象がとても良いことだ。
《村人の間には、『日 本人は優しくて親切だった。監視する兵隊が見ていなくても一生懸命に仕事をして、まじめだった』という、日本人への好意的な印象が、世代を超えて伝えられている》
http://www.geocities.jp/silkroad_tanken/
戦場では鬼にも獣にもなったであろう兵士たちだが、この時は、古き良き日本人として尊敬されたのだ。
それにしても、抑留の問題でも日本政府は遅かった。「シベリア抑留者」に1人25万〜150万円の一時金を支給する特別措置法が成立したのは、ようやく今年6月になってのことである。
65回目の終戦の日。「氷雪の門」に引きずられてか、このごろ抑留者のことを考える。