樺太残留韓国人の思い出2

takase222010-05-09

きょう電車の中で、グレートジャーニーで知られる探検家の関野吉晴さんとバッタリ会った。この人はすごい人である。
経歴は;
一橋大学在学中に同大探検部を創設し、1971年アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。
その後25年間に32回、通算10年間以上にわたって、アマゾン川源流や中央アンデスパタゴニア、アタカマ高地、ギアナ高地など、南米への旅を重ねる。その間、現地での医療の必要性を感じて、横浜市大医学部に入学。医師(外科)となって、武蔵野赤十字病院多摩川総合病院などに勤務。その間も南米通いを続けた。
1993年からは、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千キロの行程を、自らの脚力と腕力だけをたよりに遡行する旅「グレートジャーニー」を始める。南米最南端ナバリーノ島をカヤックで出発して以来、足かけ10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。
2004年7月からは「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」をスタート。
5年がかりの旅になる予定》http://www.sekino.info/
グレートジャーニーを終えた関野さんに、奥さんが、「ばかな人だと思ってたけど、そこまでばかだと思わなかった」と言ったというのは有名な話。
私をふくめ世間がきょう明日の損得で動いているとき、こういう「ばか」な人に会うと元気付けられる。
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さて、きのうの続き。
サハリンから帰った私は、久米宏氏の「ニュースステーション」の特集で放送した。そして、映像素材を韓国の制作会社のプロデューサー、全玉淑(チョンオクスク)さんに無料で提供した。それはKBS(韓国放送公社)で大特集として流され、サハリンにコリアンが残っていることを韓国で報じた初めてのテレビ番組となった。
大韓赤十字も動き出し、その後は、日本での一時帰国だけでなく、韓国への里帰りや永住帰国も進むことになる。
もちろん、テレビ番組だけの力ではないが、その後にサハリンに行ったとき、前に取材した朝鮮人たちに囲まれて「よくやってくれたね!」と感謝された。この仕事をしてよかったなとしみじみ思ったことだった。

だが、もともと人道的な運動としてはじまったサハリンの朝鮮人帰還運動は、途中から大きく変質していく。
きっかけは「帰還請求訴訟」だった。裁判の最後の証言者に、従軍慰安婦を含む朝鮮人の暴力的な強制連行(朝鮮人狩り)をみずから行ったと告白していた吉田清治が立った。
この裁判は大きな注目を浴び、のちに、いわゆる従軍慰安婦訴訟」へと繋がっていく。吉田氏の告白が完全な作り話だと判明したのは、法廷での証言から7年も経った1989年のことで、後の祭りだった。
サハリン残留朝鮮人問題は、その後の戦後責任についての「流れ」を作ったという意味で、重要で興味深いものである。
私個人にとっては、ジャーナリズム、アカデミズムを含む社会に「ウソ」がまかり通っていることを教えてくれた取材になった。

もう一つ、興味深い事実がある。
李義八さんら樺太帰還在日韓国人会の中心メンバーは、1958年に日本人妻とともに日本に引き揚げた韓国人たちだ。その翌59年、北朝鮮への帰還事業がはじまる。サハリンから引き揚げた彼らはこれに大反対した。
実は、帰還運動はサハリンでその前に始まっていた。
50年代後半、サハリンの朝鮮人に対して北朝鮮に行こうという宣伝、勧誘があり160名が移住していた。ところがほとんどが消息不明にあり、中には、あまりの酷さに耐えかねてサハリンに戻ろうと北朝鮮を脱走、途中で力尽きて死亡した人までいたという。彼らは「地上の楽園」がウソであることをよく知っていたのだ。
サハリンもそろそろ春。豊原(ユジノサハリンスク)の旧樺太庁の桜ももう咲いているだろうか。
なお、サハリン残留朝鮮人帰還運動に関しては、運動の中枢にいた新井佐和子さんの『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』(草思社)を勧めたい。
新井さん執筆の雑誌記事は以下。
http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&task=view&id=349&Itemid=32