樺太残留韓国人の思い出1

きのうから朝日新聞で「ニッポンとコリア百年の明日―家族第一部」の連載がはじまった(朝刊社会面)。
最初に登場した人の名前に昔が蘇った。李義八(イヒパル)さん。

私が取材で会った最初の朝鮮人だ。
もう20年以上前のこと、私はサハリン(樺太)残留朝鮮人(「朝鮮人」=南北を問わず半島の人の意)の問題を取材するため、樺太帰還在日韓国人会の会長をしていた李さんに会いに行ったのだった。当時、その会は、サハリンから残留韓国人を日本に招聘し、韓国から呼んだその家族と再会させる事業をしていた。
これをきっかけに私はサハリンに通うようになり、後には国後(クナシリ)で日本のテレビで初めて北方領土を取材して外務省を激怒させるのだが、それはまた別の機会に書こう。
サハリンの残留朝鮮人の取材は、いろんな意味で私の認識を変えた。特に、それまで持っていた歴史に関する常識をひっくり返した。
戦後民主主義教育の下で、私は一度も卒業式で「君が代」を歌うことなく育った。その後、左翼になったこともあり、アジア特に中国、朝鮮への贖罪意識は人一倍強かったと思う。サハリンの朝鮮人に注目したのは、当時、大沼保昭氏などが主唱していた戦後責任という考え方に共鳴したからだった。「戦争責任」ではなく、戦後の我々も負っている「戦後責任」・・。
「日本によって朝鮮半島からサハリンに強制連行され、そのまま帰れなかった4万3千人の人々(注)がいる。日本人は帰国できたのに、朝鮮人たちは、日本政府が棄民としたために今も厳寒の地で韓国の家族を思いながら生きている。これを「解決」することが我々の戦後責任だ。」
私はこんなふうに考えていた。
私は緊張してサハリンに向かった。朝鮮人たちに罵られ、殴られることも覚悟していた。
市場では、たくさんの朝鮮人のおばあさんたちが、キムチやゼンマイの煮つけを売っていた。「日本の方ですか、懐かしいねえ」とニコニコして声をかけてくる。そして次にこう言ったのだった。
「ひばりちゃん、死んでしまってがっかりだねえ」
えっ、ひばりちゃんて?美空ひばりですか?
「うん、みんなで泣いた」
美空ひばりが死んだのが、1989年(平成元年)6月で、私のサハリン取材はその直後であった。

初日から私たち取材班は、朝鮮人の家々に招かれ、毎晩宴会でひばりの歌を合唱することになる。みなNHKを聞いているから、大相撲の結果も日本の芸能も私よりよく知っている。
私たちが戦後初めて見る日本人だという人も多く、大歓迎を受けた。
この取材で私は50人近い朝鮮人と会った。彼らが最果ての樺太まできたのは、内地よりもはるかに賃金が高かったからだという。「強制連行」などという実態がなかったことを知って衝撃を受けた。
また、戦後朝鮮半島出身者が残留させられたのは、日本政府よりも、彼らを労働力として留め置いた旧ソ連、韓国帰還に反対した北朝鮮、帰還に消極的な韓国などの責任の方がはるかに大きいことも分かった。
(つづく)
(注)4万3千人という数字が一人歩きしてきたが、これには北朝鮮旧ソ連の他の地方から移住してきたコリアンも含まれており、日本時代から残留した実数は1万5千人くらいだったようだ。