帰国事業50周年で講演会

takase222009-12-14

きょう、12月14日は、北朝鮮へのいわゆる「帰国事業」の50周年だ。
半世紀前の1959年のきょう、新潟港から北朝鮮への第一船が出港していった。新潟では「追悼集会」があった。
北朝鮮帰還事業開始から丸50年となった14日、最初の帰還船が出発した新潟港中央埠頭(ふとう)で、北朝鮮強制収容所に連行されたり、処刑されたりしたとされる1万人を超える犠牲者の霊を慰めようと、「あの日を忘れない 新潟港追悼集会」が開かれた。
 脱北した帰還者の日本定住を支援する「移民政策研究所」の坂中英徳代表が、「50年の節目は日本人妻救出の機運を高めるチャンス」と企画。集会には日本人妻1人を含む8人の脱北者も参加。50年前の埠頭は雪で、975人を乗せた帰還船を“マンセー(万歳)、マンセー”のかけ声で2千人が見送ったという。
 坂中代表は「日本人妻1831人のうち生存しているのは100人前後。全員帰ってくるまで頑張りたい」と呼びかけた。日本人妻の伯母を亡くした遺族代表の広瀬直子さん(59)は「ご主人が亡くなって伯母が帰りたいと言ってきたが…」と救い出せなかった無念さを涙で語った》(産経)
東京では、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」と「民団」の共催で、《北送50周年特別講演会》が開かれ、私はこれを取材しに行った。
脱北者の女性が証言したが、大きなマスクをかけていた。北朝鮮に残っている家族が不利な立場にならないよう、公の場で発言する脱北者の多くは顔を隠す。このことが北朝鮮の体制の異様さを示している。
「私は8000元で辺鄙な中国の農村に売られた」、「中国で摘発されて北朝鮮に強制送還され収容所に入れられた」、「同じ収容所にいた妊婦が看守に堕胎させられた」、「近くに住んでいた日本人妻の家族は悲惨で餓死寸前だった。その息子が他人の弁当を盗んだら、それだけで一家が山送りになった」・・・。餓死、拷問、人身売買といった、普通の日本人にとっては別世界のことが淡々と語られる。
「守る会」の山田副代表が、異常な社会からやってきた脱北者が日本に定住することの難しさを訴えた。ある若い男性Jさんに、「守る会」は何度か仕事を紹介したが、すぐに辞めてしまい続かない。もっと根性を持て、とはっぱをかけても、引きこもりのような状態になったりとうまくいかない。
あるときJさんは、「通りを歩いている人がみな死体に見えることがある」、「人の死臭がはっきりと蘇る」などと告白した。心療内科に診せると、かなり重いトラウマがあって、しっかりとした治療が必要だと診断され、いま治療中だという。
実はJさんは、北朝鮮で、餓死者の腐乱した死体を片付ける仕事をさせられ、そのときから精神的におかしくなってしまった。こういう、すさまじい体験をしている脱北者は多く、精神を病む人も珍しくない。
中国の残留孤児やベトナム難民などとも異なり、本来なら、受け入れの際、きめ細かい精神的ケアなども必要なのだと山田さんは訴えた。
私もJさんを知っている。仕事をはじめても、すぐに意気消沈して、挫折してしまう彼に、私は「若いのにだらしない」と非難の目を向けがちだった。山田さんの話に、北朝鮮という社会に長く暮らすことが、人間の心に及ぼす影響を過小評価していたことを反省させられた。