覚りへの道7-「頓悟」と「漸悟」1

前回までで、「覚り」とはおとぎ話ではなく、現実に存在する「現象」であること、私たち生身の人間も達しうる境地であるらしいことが分かった。
ここまで書いてきて、私はどうやら、「覚り」というテーマに「取材」というスタンスで向き合っているのではないかと思えてきた。「覚り」とは実は「死」をどう受けとめるかの問題に直結するテーマである。もし、これを「取材」だというなら、これほど難しいテーマはない。考えながら手探りで書いていこう。
私たちの仕事で大事なことの一つは、難しいことをなるべく多くの人に分かりやすく提示するということだ。ところが、世の中には、「難しいほどありがたい」と思う人がいるようで、宗教、哲学の分野には特に多い。そこで、早く前に進むために、大事でないと私が思った問題は大胆に切り捨てていきたい。
さて、あまたの覚者がたどりついた「覚り」の中身なのだが、この詳しい説明は後回しにしたい。高い山の頂上に辿りついた人が見る素晴らしい景色をいくら描写しても、これから登山する人には実践的に必須のものではないと思うからだ。
ただ、登山ガイドブック的にあらかじめ簡単に言っておこう。
覚者たちが覚った《中身》とは何か。それは《自分と宇宙は一体だ》ということだ。単純すぎて「なーんだ、そんなことか」と拍子抜けしてしまうかもしれない。
ここで重要なのは、これを「はい、分かりました」と言っても、それは覚りではないということだ。言葉で理解する、理屈で分かるということが覚りではない。その「理解の仕方」こそ覚りを考えるうえでのポイントであるように思われる。
そこで、「中身」ではなく「理解の仕方」にかかわる「ハウツー」言い換えれば「覚りの形」から検討してみたい。
ヒントになるのが「頓悟」と「漸悟」という問題だ。
まず「頓悟」である。これは字のごとく一瞬にして覚ってしまうことだ。
例えば禅における典型的な覚りパターンを紹介しよう。
唐末期の禅僧に香厳(きょうげん)和尚がいる。和尚は師が出した公案にどうしても答えを見出せず、あきらめて墓守をしていた。ある日、山中で草刈りをしていたら、小石が竹に当たった。そのカチンという音を聞いて「豁然(かつねん)として大悟(たいご)した」と伝えられる。
(goo辞書の「豁然大悟」には、《疑い迷っていたことが、からっと開け解けて真理を悟ること。「豁然」は、からっと開けるさま。「大悟」は大いに悟る、真理を悟ること》とある)http://dictionary.goo.ne.jp/idiom/search/%A4%AB%A4%C4%A4%BC%A4%F3%A4%BF%A4%A4%A4%B4/detail.html
一方の「漸悟」は少しづつ、じわじわ覚ること。
大乗仏教の正統派、「唯識」を学ぶと、覚るためには「3カルパ」かかると教わる(7カルパという説もある)。
カルパとは漢字で「劫」(こう)と書き、時間の長さの単位だ。「1劫(カルパ)」とはこうだ。
インドの平原で象が一日かかって歩く距離といえば、ゆうに20キロ以上あるだろう。この距離を一辺とする岩の立方体を思い浮かべてほしい。チョモランマの海抜の3倍くらいの高さで、縦も横も同じという恐ろしく巨大な岩山。
ここに天女が百年に一回天から降りてくる。インドの天女がどんなものか知らないが、とりあえず竜宮城の乙姫をイメージしてみる。そして、身につけた柔らかい薄い羽衣でサーッと岩をなでて天に帰っていく。いくら柔らかい羽衣でもごくわずかだが岩は削り取られる。これが百年に一回である。これを繰り返して、巨大岩山がすっかり擦り切れてしまうのが「1劫(カルパ)」だという。日本人にはとても思いつかない、もう気が遠くなりそうな時間である。
ちなみに、落語の「寿限無(じゅげむ)」の「ごこーのすーりきれ」は何だか分からなかったが、「五劫の擦り切れ」つまり5カルパだったことを唯識を学んで初めて知った。
さて、こうなると、覚りにいたるまで、かたや「一瞬」、かたや「3劫(カルパ)」!
同じ仏教のなかで、この違いはいったいどうしたことか。
(つづく)