覚りへの道12-覚り体験3

この前から一ヶ月も経ってしまい、どこまで来たか忘れてしまった。
おさらいすると、覚りの過程には、「覚り体験」という飛躍の段階があり、それは坐禅・瞑想の最中に起きるのではなく、例えば竹に石が当たった音ではっと覚るというように、外から刺激を受けて誘発されるらしいということだった。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090315
《桃の花を見るのは色因、竹に小石は声(しょう)因。その他、火因もあれば水因もあろう。ともに触因、いな触縁というべきか。》 (秋月龍萊師)
なかなか覚れずに悩み苦しんで修行しているうち、ふとした拍子に何かの縁でパッと覚る。それは言葉では表現できない現象だという。そして、覚り体験をすると、大きな喜びとともに「なんだ、覚りというのは、こんなことだったのか」という感想を持つ人が少なくないようだ。
覚りの「中身」を、とりあえず脇に置き、心理的なプロセスとしてだけ「覚り体験」を見ると、スポーツなどの身体感覚に近いのではないかと思う。
例えば水泳。
「かなづち」の人は、いくら本を読んでも、言葉で教えてもらっても泳げるようにはならない。水を飲んでゲーゲーやっていると、情けなくて涙も出てくる。すいすい泳いでいる人を見ると、いつか自分が泳げるときが来るとは信じられない。それでも、いつものように水中でもがいて練習していらた、いつのまにか、水に浮いて泳いでいるのに気がつく。
あるいは自転車乗り。
乗れない子は、ころんで膝小僧をすりむくばかり。なぜ、二輪の車に乗れるのかわからない。らくらく片手乗りしている年長の子どもたちが、まるで魔法を使っているかのように見える。ところが、あるとき、ふと、倒れずにペダルをこいでいる自分がいるではないか。なーんだ、簡単じゃないか。
こういう心理的なプロセスは人工的に起こすことができるという。
鈴木大拙は、アメリカはじめ世界中に禅を広め、世界でもっとも知られた禅者だ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99
鈴木は少年時代、7歳か8歳のときに、「秘事法門」という儀式を体験したことをこう語っている。
《母親の友だちがきて、仏壇にお灯明をあげて、お経は読んだかどうか忘れたが、先達みたいな男がいて、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と、なんべんでもやたらに称えさせる。わしが称えたか、その男がいうたか忘れたが、ともかく「南無阿弥陀仏」をやたらと称えながら、膝をついて坐っているわしの上半身を持って、その男が前後にゆすぶるのだ。三十分か一時間か、どのくらいやったか、時間を覚えているといいのだが、そうしているうちに、いい加減のころにその運動をひょっととめてしまう。そのときに、心理的な変化が出るのだ。それまでのリズミック・モーション(律動的運動)が破れた拍子に、そこでどうか、意識に変化が起こって、ある感覚が出る。「それ、助かった」というわけだ。》
念仏をとなえさせて精神を集中させると同時に、身体に強い反復運動を加える。そして、運動を急に止めるという変化を与えると、ある特殊な心理状態が作られるという。これは覚り体験なのか。
(つづく)
(参考:秋月龍萊『世界の禅者―鈴木大拙の生涯』)