覚りへの道9-「頓悟」と「漸悟」3

きょうは、覚りまで「3劫(カルパ」という唯識の考え方を見ていく。
唯識では何度も生まれかわって覚りを目指すことになっている。そこで、今生で覚るのはとても無理だと絶望した法相宗http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97の坊さんもいたという。誰しも生きているうちに覚りたい。平安時代になって空海密教を持ち込み、生身の人間がすぐに覚れると説いたのだから、そっちに人気が集まったのは当然だったろう。
まず唯識の説くところを見ていこう。
唯識の代表的な論書に『唯識三十頌(じゅ)』(ヴァスヴァンドゥ著)がある。これは難しい論書で、こんなものを若い人は知らないだろうなと思っていたら、なんと宇多田ヒカルのブログに登場しているではないか!
「ちなみに写経のお気に入りは唯識三十頌です(はぁと)」http://www.u3music.com/message/backnumber/ja/20080728j.html
(はぁと)だって?この軽いノリは何だ・・。
この論書では、凡夫から覚りまでの行程を五段階に(五位説)分けている。
《五位説》では、
修行の第一段階「資糧位」(これから旅をするための物資・食糧を準備する時期)
第二の「加行位(けぎょうい)」(修行を加えていく段階)
第三の「通達位(つうだつい)」(主客の分裂を離れた段階)
第四の「修習位(しゅじゅうい)」(常識を超えた智に達した段階)と進んで、
第五の「究境位(くきょうい)」(究極の境地)にいたる。
ここでは第三の「通達位」で質的な転換(=飛躍)があると見てよい。その上で自らを高め成熟させていくのが第四と第五と考えられる。
別の唯識の論書『摂(しょう)大乗論』(ヴァスヴァンドゥの実兄アサンガ著)では、覚ったあとの成長を十段階に(十地説)に分けてじっくり説明している。
この《十地説》は華厳経にある考え方だが、
第一は「歓喜の段階」=歓喜地(かんぎじ)
第二は「無垢の段階」=無垢地
第三は「明るい炎の段階」=明焔地(みょうえんじ)・・・と修行を進めていって、
最高の覚りの境地である、
第十の「真理の雲の段階」=法雲地に至るとされている。
《五位説》と違うのは、これははじめから覚ったうえでの十段階だということだ。
最初の《歓喜地(かんぎじ)》が覚って喜ぶ段階だ。「歓喜」と言うのは、ここには明らかに「飛躍」があることを示している。
以上をまとめるとこうなる。折れ線グラフで覚りの「達成度」を描くとすれば、低いところからなだらかに上がっていって、ある時点で上にジャンプする。ここが「通達位」の入り口であり《十地説》の「歓喜地」。そこからまた、じわじわと段階的に上昇していく。こんなイメージができそうである。
唯識でも「覚り体験」という飛躍があることは禅と同じなのだ。そしてその後に段階的な向上の過程があることも。
こうして、「頓悟」と「漸悟」を対置する議論を整理し、私たちは覚りの大まかなイメージをつかむことができた。「頓悟」も「漸悟」もことさらに対立させる概念ではなく、それぞれ覚りのある側面を強調した表現だと理解しておこう。
結論として得られたのは、少なくとも大乗仏教では、覚りとは、修行⇒「覚り体験」という飛躍⇒修行の深化で完全な覚りへ、という道筋になっているということである。
私に残された時間を考えると、完全な覚りは実践的な目標にはなりえない。
当面するターゲットを「覚り体験」に絞ろう。
(つづく)
【参考:岡野守也大乗仏教深層心理学』、同『唯識の心理学』】