前回、覚り体験は瞑想中には起きないらしいと書いた。
しかし、有名な覚者はみな、瞑想、坐禅のただなかで覚ったことになっているのではないのかとの疑問もあるだろう。たとえば、お釈迦様は菩提樹の下での瞑想によって、道元禅師は宋の寺で熱心に坐禅していたときに覚ったはずではなかったのか?
まず、お釈迦様の覚り体験はどうだったのか。
《苦行をやめた釈尊は、ヨーガを行じて禅定を修行し、無想定に入った。そのときふと暁(あ)けの明星のキラメキを眼にして、一種の直覚に出た。それが仏陀の証した菩提(悟り)である。》(秋月龍萊『誤解された仏教』)
2500年も前のことで、史実かどうかは分らないが、この通りだとすれば、お釈迦様はふと星を仰いで覚っている。つまり、その瞬間は瞑想していないわけである。
では道元はどうか。
《宝慶元年(1225)の夏安居(げあんご)も終わりに近い早暁、坐禅中に一人の雲水が居眠りをしているのを見て、如浄が「参禅は、すべからく身心脱落なるべし。只管打睡してなにを為すに堪えんや」(参禅は身心脱落でなければならない。ただ、眠っていて何ができるか)と大喝したのを聞いて、傍らで坐禅三昧になっていた道元は、豁然として大悟した。》(秋月龍萊『道元入門』)
たしかに坐禅中だったのだが、覚りのきっかけは、すぐそばで師匠の如浄が「大喝」つまり大声でどなったことだった。
以下、禅の著名人の覚り体験をいくつか書き出してみよう。まず日本の尼さんから。
○如大尼(1222-1298)は、頭にのせて運んでいた水桶の底が抜けてびしょぬれになって「忽然として省悟(せいご)した」。(「省悟」というのは「大悟」より小さな覚りとされるようだ。これについては、後で触れる)
○洞山良价(807~869、とうざんりょうかい)は諸方を行脚していた。ある日、小川の水を渡ろうとしたとき、自分の姿が水鏡に映ったのを見て覚った。
○徳山和尚の弟子、厳頭と雪峰は連れ立って行脚の旅に出た。夜更けまで座禅を続ける雪峰に兄弟子の厳頭がどなりつけたとき、雪峰は大悟した。
○雲門和尚の同参の孚上座(ふじょうざ)は徹夜で坐禅していたところ、明け方の鐘の音を聞いて大悟した。(秋月龍萊『一日一禅』より)
どうやら、外から何らかの刺激があって、それが覚りを誘引するようなのだ。覚り体験のエピソードを五十くらい調べたのだが、視覚、聴覚、触覚と刺激の種類は実にさまざまだ。私はまだ知らないが、臭覚で、つまり何かの匂いをかいで覚った人などもきっといると思う。
こういう覚り体験の起こり方は、私だけでなく、多くの人にとって意外だろうが、実は禅の世界では常識だという。そして、禅では、覚りを促進するために、修行者に「刺激」を意図的に加えるテクニックも開発されていた。
(つづく)