刑死戦犯の手記より

死を前にして、自分の死の意味を問う。
それが極限の形で現れるのが、処刑前の戦争犯罪人だ。
戦犯にはA、B、C級があった。「巨人連敗のA級戦犯は誰だ」などと使われ、罪の重いほうからABCと等級分けしたかのような誤解があるが、罪の種類が全く異なる。
A級は極東国際軍事裁判所で裁かれた「平和に対する罪」に関する犯罪。A級裁判は、日本がそもそも戦争を始めたことの責任を問うもので、各人の役割の政治的解釈が焦点となった。一言でいって、これは政治裁判である。
これに対し、B級は国際法による交戦法規違反である「通例の戦争犯罪」、C級は民間人や捕虜虐待などの非人道的行為を意味する「人道に対する罪」に関するものだ。戦場での具体的な行動が問題とされ、多くのドラマがあった。BC級裁判はマニラなど50カ所近くで開かれ、およそ5700人が裁かれた。うち8割が有罪となり、なんと900人以上もの人々が処刑されている。
冤罪が非常に多く、多くの無実の人々が死刑に処せられたが、このことについてはいずれ書こう。
ここに紹介するのは、『きけ わだつみのこえ』に載っている木村久夫氏の手記だ。
1918年大阪府に生まれ、京大に入学するも半年で入営。戦後、戦犯裁判で有罪となり、46年シンガポールで陸軍上等兵として28歳で刑死した。
具体的な罪状は書かれていないが、「ニコバル島」で「敵の諜者(スパイ)を発見した」行為に触れているから、おそらくはスパイの拷問か処刑が罪に問われたのではなかろうか。
《私の上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、それがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下された》とある。このように、上級者が罪を逃れるために下級者に偽りの証言を強いるケースは非常に多かったようだ。
《最も態度の卑しかったのは陸軍の将校連に多かった》。《私の生きる事が、かかる将校連の生きる事よりも日本にとっては数倍有益なる事は明白と思われ》ると悔しさを吐露している。判決が出たあと、英文で真相を暴露して訴えたが、時すでに遅かった。
処刑を前にした木村氏は、死の意味を必死に考え続ける。
《大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。
 日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人類の気持が少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺(のこ)すことなのである。(略)
 日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける。》
「大和」の将校たちと同様に、彼も自分の死を大きなものとの関係で意味づけている。
そして木村氏は、死を前にして大きな喜びをも味わったのだった。
(つづく)