戦犯タクマを追って4

 日本のGHQ最高司令官だったダグラス・マッカーサーは、戦前はフィリピンの陸軍元帥の称号まで与えられており、彼自身、フィリピンの庇護者を自認していました。「私はあなた方と最後まで戦う、決して逃げない」と言っていたのに、日本軍が攻めてきて「アイシャルリターン”I shall return”」という言葉を残して撤退せざるを得なかった。彼にはフィリピンに対する特別な思い入れがあったようです。
 そもそも彼の父親は、20世紀の初めに軍人としてフィリピンに来ていて、アギナルド将軍(フィリピンの独立英雄)とともにスペインに対して戦っています。フィリピンには特別の思い入れのある一家なのです。
 戦争が終わりに近づいたとき、米国側には、フィリピンを奪還するかどうかをめぐって議論がありました。「飛び石作戦」を強く唱える声がありました。それは、フィリピンには制空権、制海権を失った、戦力にならない日本軍が閉じ込められているにすぎない、日本本土攻撃を急ぐためにも、フィリピンにはかまわずに通過すべきだという意見です。しかし、マッカーサーの強い主張で、フィリピンへの再上陸を敢行し、フィリピン人も巻き込んで大変な犠牲が出たわけです。
 こうしたことから推測すると、戦犯裁判を急いだのは、アメリカがフィリピンの解放者であることを、いちはやく象徴的に見せる必要があったからではないでしょうか。事実マッカーサーは山下の判決を急ぐよう勧告しています。
ニュルンベルグ裁判」が始まると、アメリカのマスコミの注目はマニラから離れてしまって一面トップにならなくなる。そういうマッカーサーの名誉心が働いたのだろうと、山下の弁護団のリー(Lee)という軍人が回顧して言っています。実際、「ニュルンベルグ裁判」は11月20日に始まりますが、マニラ軍事法廷の開始は10月8日でした。
 そして、山下奉文(ともゆき)大将、太田清一憲兵隊長、そして東地琢磨という三名の処刑が、1946年2月23日に、すべての戦犯裁判で最も早く執行されたわけですが、なぜこの三名が選ばれたのか。

 私は、これは“ショーウィンドー”だったと思います。山下はフィリピンの日本軍の代表、太田は悪名高い「ケンペイタイ」の代表、そして東地は現地の日本軍協力者の代表として並べられて、戦犯処刑第一号となったのでしょう。処刑は2月23日にマニラ郊外のロスバニオスで執行されましたが、ちょうどその一年前、同じ場所に収容されていた連合軍捕虜が解放されています。タイミングは、その一周年にあわせたのです。
 では、なぜ東地琢磨という、兵士でもない、まだ若い混血青年が極刑を科せられなければならなかったのでしょうか。
(つづく)