戦犯タクマを追って9

軍関係者の話で浮かび上がってくるタクマは「模範的な軍属」で、最後は他の兵士たちの罪まで被って、日本的な美徳のなかに死んでいったというふうになるのですが、私はそれとはちょっと違った印象も持っているんです。それは、彼の裁判に関する新聞記事などに当たっていく過程で感じてきたものです。
 1945年12月27日付の「マニラ・タイムズ」紙には、「タクマ・ヒガシジの裁判始まる」という見出しの記事で、彼に殺されたとされる人の名前を列挙し、数百人の非戦闘員を虐殺したなど、起訴状の内容を載せています。翌28日の同紙には「反ダース(6人)の目撃者、ヌエバビスカヤ州から出頭したが、その証言をタクマは関心がなさそうな表情で聞いていた」と書かれている。運命の変転に放心状態だったのか、何か投げやりな態度で裁判に臨んでいるみたいです。
翌年の1月9日付同紙は、7日の判決を報じており、記事の中で、「東地」が証人に対して、「これまで私はずっといい目を見てきた。今度は君らの番だ(It’s your days)」と言ったと書いています。かなりシニカルになっているタクマの姿があります。そして25分の審議の後、裁判長が絞首刑を宣告したと報じています。

2月23日に処刑されますが、24日の「マニラ・クロニクル」紙が「山下、太田、絞首刑に処せられる」という見出しの記事を載せています。これによると、山下、太田はともに武人らしく静かに死についたが、東地は動揺していた。山下は最後に天皇の弥栄(いやさか)を唱え、太田も天皇と皇室万歳を叫び、東地は”Good by forever!”(永遠にさようなら)と言い、死刑台のトラップが落ち、丘にその音がこだましていった。
 こういうのを読むと、タクマは最期は動揺を見せている。別の資料によると、教誨師も拒んだことになっています。天皇万歳もなく、「グッバイ・フォーエバー」とだけ言って死にました。

 日本は父の国、フィリピンは母の国、その間での戦いの中で、タクマは彼なりに悩んでいたのではないか。そういう視点で裁判記録を読み直すと、こんな記述にぶつかります。
 「被告(タクマ)は、日本人のために働くことをやめることはできなかった。日本人の士官に、半分日本人なのだから絶対服従すべしと言われた。被告が、この任務を辞めたいと申し出たとき、ある軍曹が『国家に敵対するのか』と言って彼を責めた。彼は、もし辞めれば殺されるのではないかと恐れた。ある別の混血児は、日本人のために働くことを拒否し、首を斬られた。被告はまた、日本軍を離れれば、ゲリラが彼を殺すのではないかと恐れた」。
 彼は一度は、日本軍での任務を辞めたいという意思を表明していたようです。彼がタツ子さんに残した「もし、この任務から離れることができたら、待っていてくれるか」というメッセージともつながってきます。彼が二つの国の間で、板ばさみになっている様子もうかがえます。
 また、タクマは裁判の中で、「日本軍のために働いた本来の目的は、日本人とフィリピン人のよりよい相互理解をもたらそうとしたためだった」と言っています。フィリピンのためにもなると思って、懸命に努力してきたのに、というタクマのため息が聞こえてくるようです。