刑死戦犯の手記より2

takase222008-09-27

BC級戦犯裁判では、多くの下級兵士や軍属が裁かれた。
有罪になった中には、多くの朝鮮半島、台湾出身者がいた。朝鮮人148人、台湾人173人という記録がある。朝鮮人戦犯についていえば、148人のうち軍人は3人だけで、129人と圧倒的多数が捕虜収容所の監視員だったという。
42年5月、朝鮮半島では日本軍の俘虜監視、つまり捕虜収容所の看守を大募集した。連合軍俘虜は26万人に膨れ上がっており、この監視のため、朝鮮青年3000人が主に南方に送られた。
日本軍は俘虜を労働力に使った。非常に劣悪な環境下での労務もあった。映画「戦場にかける橋」で知られる泰緬鉄道の建設現場もその一つだった。写真はクワイ川の鉄橋。
およそ5万5千人の英・米・豪軍などの捕虜のうち、1万2千人がマラリア赤痢、過労などで死亡したとされる。今もこの鉄道の一部に乗ることができるが、よくこんなジャングルの中の断崖絶壁に鉄路を作ったものだと驚く。
早期完成をせかされた現場は、突貫作業の連続となった。勢い、病気の俘虜でも重病人以外は狩り出すことになる。監視役の朝鮮青年たちは、上部からの労働力供出命令には従わざるをえず、銃を突きつけ、ビンタをはって俘虜を追い立てた。日本は俘虜の人道的扱いを決めた「ジュネーブ条約」(署名したが批准していなかった)の「準用」を約束したのだが、監視役には全く教育されなかったという。
戦後、捕虜たちの怨嗟の的になったのは、命令を下した軍の上級者よりは、むしろ日々接して顔や名前を覚えた監視役の青年たちや通訳だった。
最近もパール判事の評価をめぐる議論が再燃するなど、A級戦犯裁判ばかりが注目されるが、戦争の実態と日本軍の体質・構造が良く分るのはむしろBC級の裁判である。
さて、理不尽な死刑判決を受けた木村久夫上等兵が、処刑されたのは、46年の5月23日だった。東京の極東軍事裁判では5月3日から審理が開始されたばかりのときである。処刑直前、彼は日本への期待をこう書いている。
《我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果たすであろう。(略)
かつてのごとき、我に都合の悪(あ)しきもの、意に添わぬものは凡て悪なりとして、ただ武力をもって排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国に来(きた)す所以(ゆえん)の道である。》
死を前にした彼の境遇に思いをはせるとき、この言葉はとても重く響いてくる。
手記には、死の意味づけのほかに、心境を語った箇所もある。
《吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一匙の飯、これらの一つ一つの凡てが今の私にとっては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。やがて数日のうちには私へのお呼びも掛って来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚もなくやって来たこれらの事が味わえば味わうほど、このようにも痛切なる味を持っているものであるかと驚くばかりである。口に含んだ一匙の飯が何とも言い得ない刺激を舌に与え、溶けるがごとく喉から胃へと降りて行く触感を、目を閉じてジッと味わう時、この現世の千万無量の複雑なる内容が、凡てこの一つの感覚の中にこめられているように感ぜられる。泣きたくなる事がある。しかし涙さえ今の私には出る余裕はない。極限まで押しつめられた人間には何の立腹も悲観も涙もない。ただ与えられた瞬間瞬間を有難く、それあるがままに享受してゆくのである。》
思えば、みなが有限な生を生きている。それがあと数日と分っているか、いつ終わるかが見えていないかの違いだけだ。その有限性を自覚するとき、私たちは今の瞬間を、より喜び多いものにできるはずである