近くの図書館への途中、畑を通る。
まだ雪が残っていて、青い空とのコントラストが美しい。
いま、朝日新聞で天皇のフィリピン訪問に合わせて、「継承の旅」という連載企画をやっている。
きょうの記事に紹介されている日系人、「東地初子」(ひがしじはつこ)さんの名前に昔の記憶がよみがえってきた。
以下、朝日の記事。
《ルソン島中部のバギオ。避暑地としてにぎわう山あいの街で、その女性は「本当」の名前を隠し、息を潜めるようにして過ごしてきた。
日系2世の東地(ひがしじ)初子さん(74)。戦前にバギオに渡った日本人の父と現地女性との間に生まれた。8カ月後に日米が開戦。父は日本軍に徴用され、終戦後、日本に強制送還されログイン前の続きた。母娘2人きりの生活は食べる物に困るほど苦しかった。小学校に入学すると、渦巻く反日感情の中でいじめにあった。人殺しとののしられたり、棒で殴られたり。そんな日々が続いた。
入学してまだ間もないころ、母方の名字と教会でもらった洗礼名から「ジュリエッタ・ロカノ」を名乗った。出自を隠し続けたが、フィリピン人男性と家庭を持つと、どこから聞きつけられたのか、今度は子どもたちがいじめられた。「父を、出自を恨むようになりました」
転機は1972年、日本人シスターからかけられた言葉だ。「2世であることはあなたそのもの。恨むべきは、多くの人を傷つけた戦争なのよ」。自分と同じように隠れ住む2世を訪ねて回った。同じ境遇を分かち合える仲間ができた。
戦後40年近くが経とうとしていた84年。父の消息をたどって故郷の和歌山県を訪ねたが、すでに亡くなっていた。父は、最期まで自分と母が戦争で死んだと思い込んでいた、と周りから聞いた。「私たちを見捨てたわけではなかったんだ」。そう思うとわだかまりは解けていった。
今は、二つの名前、どちらにも愛着があるという。》
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12169507.html?rm=150
この記事は全く触れていないが、実は、彼女のお兄さんの東地琢磨(たくま)さんは、日本軍の戦犯処刑第一号として注目すべき人なのだ。
東京裁判のA級戦犯の死刑執行が1948年12月23日。東地さんはこれより3年近く早い1946年2月23日に処刑されている。
戦後、日本軍にたいするBC級戦犯をさばく裁判が8か国約60カ所で行われ、死刑に処せられた人が934人いる。
東地琢磨さんが処刑された日が、戦犯死刑のまさに第一日目だったのだ。その日処刑されたのは3人。第14方面(フィリピン)軍司令官の山下奉文(ともゆき)大将、太田清一憲兵隊長そして日本人を父にフィリピン人を母に持つ現地生まれの軍属、東地だった。
どうしてフィリピンで死刑が急がれたのか、なぜこの3人だったのか、とくに東地がなぜ大物2人とともに処刑第一号に選ばれたのか、疑問に思って調べたことがある。このブログで以前連載したので、関心のある方はどうぞお読みください。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090223
また、その調査の過程で、私は東地初子さんにもお会いしていた。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090328
ネグロス島でスラムに住む日系人がいると聞き、探して会いに行ったことがある。
片言の日本語で話したが、ひどく精神を病んでいて会話にならなかった。米軍の進攻で山中を逃げ惑った時の経験がたたったのだと周りの人は言っていた。
フィリピンの日系人が置かれた境遇は、他の東南アジアの日系人にくらべて格段に苦しく困難なものだった。その一つの要因に、現地のフィリピン人の犠牲の大きさがある。
フィリピンでの日米の戦いは、日本軍だけで50万人の戦没者を出すという惨状を呈した。フィリピン人の死者も多く、その恨みは日本へと向かったのだった。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20120408
今回の天皇の訪問で、いまの日本人に戦争の実態が伝えられることを期待する。
琢磨さんの処刑は、戦後日系人が酷い差別のなかで生きなければならなかったかの背景として大事な情報だと思うのだが、どうして朝日の記事はこれに触れなかったのか、疑問に思った。
なお、東地初子さんについては、以下のサイトにも紹介がある。
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tandai32-02.pdf